ジャンル: HIPHOPアーティスト情報

THES ONE
2008.09.10

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MINT
2008.09.10

キャリア十数年、韻踏合組合の一員として2nd『ジャンガル』(’03)までの諸作に参加。

脱退後は、日本トップ・クラスの実力に反し、なかなか表舞台に立つ事がないことから”決して遠出しないMC”などと呼ばれ日本語ラップファンの間では、神格化されていた。

今作『after school makin’ love』は、トピック、ライミング、リリック、フロウ等あらゆる面での”MINT WORLD”が堪能できるフェティシュなアルバムとなっている。

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BULLJUN
2008.09.10

宮崎県出身。高校卒業と同時に単身渡米、NYのレコード・ディーラーの倉庫で住み込みのアルバイトを始める。世界中の様々なレコード盤に触れるなかでヒップホップの本質に目覚め、自身もレコード盤とサンプラーを使った曲作りに傾倒。
99年の帰国時にはDJ Lark & The Funk Messengers~Abnormal Yellow Bandのレコーディング(アナログ盤のみのリリース)に参加。その後、伝説的ブレイクビーツ・ユニティ、A.Y.B.Forceの1stCDアルバム『Lost Breaks』にNYから参加。
2006年にはアルバム『Bulljun & Elbarrio 2016』にてソロ・デビュー。NYスパニッシュ・ハーレムの熱気をダイレクトに伝えるかのようなその作風が各方面で大きな反響を呼ぶ。
以降Large ProfessorやHypnotic Brass Ensemble、45 (Swing-o)、Tonda Trioといった国内外のアーティスト達との実験的なコラボレーションを重ねている。

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SOUTH CENTRAL CARTEL
2008.09.10

プロディジー率いるウエストコースト・ヒップホップの番人/サウス・セントラルの重鎮、サウス・セントラル・カーテル(SCC)。プロディジーとハヴォック・ザ・マウスーピースを中心に結成し、91年にアルバム『South Central Madness』でデビュー。同作収録の“U Gotta Deal Wit Dis(Gangsta Luv)”のストリート・ヒットで注目を集めてデフ・ジャムを契約し、『’N Gatz We Truss』(94年)をリリース。並行して、中心人物のふたりによるハヴォック&プロディジー名義作品や、変則プロジェクトであるマーダー・スクワッド名義で『S.C.C. Presents Murder Squad Nationwide』、舎弟集団ヤング・マーダー・スクワッド等々、怒涛のリリース攻勢を重ね、95年にはシンガーのL.V.がクーリオと組んだ“Gangsta’s Paradise”が世界的な大ヒットを記録。翌年にリリースされたL.V.のソロ作『I Am L.V.』、SCCとしてのデフ・ジャムからの2作目『All Day Everyday』(97年)ともども大きな話題となった。
その後はメンバー間のトラブルもあり、やや活動が停滞するも03年に『We Have The Right To Remain Violent !!!』で復活。再び活動を活発化させ、『Westurrection』(05年)、『Chucc N It Up』(09年)をリリースするとともにシャッフル・プロジェクト的な個々のグループ外活動も継続中。そして2010年、新作『South Central Gangsta Muzic』に合わせて(恐らく)グループとしては初となる来日が実現!

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GAKI-RENGER
2008.09.10

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MR. SHADOW
2008.09.10

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BUSY BEE
2008.09.10

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SPEECH DEFECT
2008.09.10

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HIMUKI
2008.09.10

90年代後半から都内を中心に全国各地でCLUB DJとして活動開始

さらにトラックメイカーとして、これまでにソロ名義で2枚のフルアルバムをリリース。RASCO,KERO-ONE,UGLYDUCKLING,PISMO,RAASHANAHMAD(CROWN CITY ROCKERS),OMNI,SENEなどアングラファンにはお馴染みのBIG ARTISTを客演に迎え大きな話題を呼ぶ。またリリースされるアナログは常にレコード店の上位を賑わせ、アナログユーザーから絶大な支持を受けている。

現在はBEATMAKING、バトルスクラッチ、CLUB PLAY、どれをとってもマルチにこなす希少な表現者として。日本のみならずアメリカからヨーロッパに至るまで様々なアーティストのプロデュース,リミックスワークを手がけるなどWORLD WIDEに活動中。

official blog
http://ameblo.jp/himuki/

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OMAR
2008.09.10

「大きくなったらオマーみたいになりたい」 ―スティーヴィー・ワンダー

オマーは 2012 年のエリザベス女王誕生日に大英帝国勲章(メンバー)を受賞した

当初は’06 年にオマー自身主宰の[Blunt Music]から、そして’11 年に再リリースされた『シング(イフ・ユー・ウォント・イット)』は UK ソウルの最高権威者による 6 枚目にして、自身所有の Backyard で録音されたものではたぶん最もファンキーなアルバムだ。スティーヴィー・ワンダー、アンジー・ストーン、コモン、エステル、ロドニー・P、JC・ベントレーといったゲストを招き、オマーの兄弟であるスクラッチ・プロフェッサーがアディショナル・プロダクションを担当している。なんとか新境地を拓き、そればかりか、大勢のファンとともに、紛れもなく独自なオマーの象徴的サウンドを再興した素晴らしい音楽集だ。

「その前作『ベスト・バイ・ファー』はサウンドトラックとラテン・ジャズから多大な影響を受けたよ。『シング』ではもっとファンキーで、クラブに戻してくれるような音を欲していた。生楽器とストリングスは「これがオレの音だ」と感じるからいまも使うけど、キックとスネアはより大きい音さ。というのもヒップホップ・ビートをつくるのが上手い、オレの兄弟がより関わっているからさ」とオマーは語る。

英国のアーティストがスティーヴィー・ワンダーのようなレジェンドを要請できたことは、無論大きな成果だ。スティーヴィーが’92 年に初めて「ナッシング・ライク・ディス」を耳にし、この年「オマーにとって最初の(になろう)ナンバーワン曲を書く」ことを約束した。14 年間待ち続け、その日はある日やってきた。スティーヴィーはロンドン滞在時に突然オマーを呼び、約束していたことを実行しようと話した。ジャムセッションののち、スティーヴィー自身もヴォーカル/キーボードを担当した、抑え切れないファンキーさとメロディを有した“Feeling You”が産まれた。

このアルバムには他にも、オマーの作品を長年称賛してきた、或いは友人でもあるスターをゲストに招いている。たとえばアンジー・ストーンはインタビューで度々彼の名を挙げ、“Little Boy”を取り上げ録音した。これが 2 つのデュエット・ヴァージョンが存在する“Be Thankful”(※注: ウィリアム・デヴォーン“Be Thankful For What You Got”のカヴァー)のうち片方をアンジーが歌うことにつながった。アンジーは『シング』に、ゴージャスなレイドバック・バラッド“All For Me”、誘惑に駆られる“Funker Stylin’”といった 2 曲の独特なスタンプを押した。

コンシャス・ヒップホップのドン、コモンも以前にオマーとの仕事があった。オマーはアメリカに頻繁にツアーに行きだした頃にコモンの『エレクトリック・サーカス』に客演し、代わりに趣があって強烈な“Gimme Some”でコモンは UKヒップホップの雄、ロドニー・P と新鋭ラッパー、アッシュマン・アンド・キャニトベと組んだ。

地元では、MOBO アウォード受賞者のエステルが、オマーにとって最良のリリックの 1 曲で、銃所持反対を訴える“Lay It Down”に感動的なラップを提供している。一方で新人の JC・ベントレーはボサ・ノヴァ調の“Be A Man”に甘く響く歌声を乗せる。

全体からみて、アルバムにこれだけの熟練したアーティストを招くのを許容したことでオマーの寛大さがはかられ、自身の立ち居地と才能においては、『シング』はこれまでのどのアルバムとも、一度として同じようなものはない。新しいスタジオにバック「A」ヤードと名づける格好の要素だ。

「隠し立てしないよ、オレはレーベルを離れマネージャーとともに Blunt Music というジョイント・ヴェンチャーを始めた。自分がしたいことをし、コントロールできる。スタジオに終日いたいならばそうすることもでき、時間とかかる費用を気にすることもない。加えて、ファンに直接音楽を届けられるんだ」とオマーは言う。

この 5 年間でオマーがしてきたことといえば、6 度アメリカ・ツアーに赴き、遂には回った場所では常に知られているほどのアンダーグラウンドでも太いサポートを得た。つい最近、ブルーイ(インコグニート)と共に UK オールスターな面々で回った東アジア・ツアーは、オマーのことを知らないような観衆のもとに連れてゆく冒険だったが、1 万人のインドネシア人の観衆が“There’s Nothing Like This”を随唱し、彼らも後に続いた。

インディの[Kongo Dance]から発表したデビュー・シングル“Mr. Postman / You And Me”でオマーの名がロンドンのアンダーグラウンドで騒がれた 15 年以上前に、はじめて人気を博して以来、ファンはオマーの冒険を追い続けている。その直後、オハイオ・プレイヤーズに影響を受けたと思わしき、大いに賞賛された“There’s Nothing Like This”の成功はジャイルス・ピーターソンの[Talkin’ Loud]との契約につながった。92~3 年のあいだに[Talkin’ Loud / Phonogram]から 2 枚のアルバム: 1 枚は[Kongo Dance]からのアルバムをより広範なリスナー向けに焼き直し、もう 1 枚の『ミュージック』はオマーがコンポーザー、アレンジャー、ヴォーカリストとして成熟した姿が浮き彫りになった、よりオーケストラのように響き、かつオーガニック(※打ち込みと生が有機的に融合)な作品だ。記憶に残るタイトルソングのほか、いまだリクエストの来る“Get to Know Better”、カーリーン・アンダーソンとの素晴らしいデュエト“Who Chooses The Seasons”のような傑作が収録されている。

その後オマーは RCA と契約し、数々の好評価と、オマーにとってのヒーロー/ヒロインを紹介される機会を得た。『フォー・プレジャー』(’94)にはオマーならではのサウンドの“Saturday”“Outside”、エリカ・バドゥがお気に入りの“Little Boy”が収録され、かつてのモータウンのプロデューサーであるリオン・ウェア、ラモン・ドジャーと共に仕事をしている。『ディス・イズ・ノット・ア・ラヴ・ソング』(’97)では LA を拠点に活動するデイヴィッド・フランクと歴史に残る共同作業をした(※元システムの片割れであるデイヴィッドは『フォー・プレジャー』でも 3 曲ソングライト/プロデュースを担当)。ひとつはストレンジャーズ“Golden Brown”カヴァー、もうひとつはオマーのオールタイム・フェイヴァリット・ヴォーカリストのひとりであるシリータ・ライトと壮麗なスロウ“Lullaby”など 2 曲で共に歌わせたことだ。

‘00 年までにオマーは、今度はフランスの[Naive]と契約、移籍した。翌年発表された 5 作目の『ベスト・バイ・ファー』はいまでは英国の回帰(※resumed)ソウル・ムーヴメント筆頭株の座を確立した、サウンドトラックやジャズへの興味の顕在化を認めるセルフ・プロデュース作だ。スターの名がここでも再び。“Be Thankful”アルバム・ヴァージョンでの、オマーとの約束を実現したエリカ・バドゥだ(シングルではアンジー・ストーンがリードのヴァージョンがある)。一方、MOBO アウォード受賞歴のあるケレ・ル・ロックがアンセム(讃歌)のようなグルーヴを有する“Come On”(シングルも)で強烈なリード・ヴォーカルを提供している。

ケント州青年交響楽団の主席パーカッショニストにしてギルドホール音楽演劇学校卒業生であるオマーは 20 年以上にわたり音楽制作に携わっている。この間、つくった作品の高品質さは彼が親しんできたポップ・ヒット・シングル群に反映されておらずも、失望を浮かべていなかったのは事実だろうか。事実、正反対で、彼は『シング』でキャリアにおける新境地創造に着手し、今までにないほどより広範に向け直接向き合うようになった。

「今、人生を楽しんでいるよ。常に、作るべき新たな音楽、取り入れるべき新たなスタイル、届けるべき新たな人たちのために素晴らしいバンドと演っているよ。ある日セインズベリー(※スーパー)に行ったら、「クライムウォッチ」(※BBC の番組)かなにかかと思ったよ。多くの人たちがこっちを見て、オレに握手を求めてくるんだ。オレにとっては新たな始まりだと感じたよ」。

オマーは最近、7 枚目のアルバム『ザ・マン』を制作、ゼッド・バイアス、キング・P、ドゥル&ペレズ、ライヴ・トロピカル・フィッシュらをフィーチュアしている。音楽以外にもアルファロメオの CM ナレーター、演技(“Been So Long”と“Love Song”)などに手を拡げた。オマーをほかの場所でも目撃して欲しい。

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