ジャンル: HIPHOPアーティスト情報

SPECIFICS
2008.09.10

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J.RAWLS
2008.09.10

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A.Y.B. FORCE
2008.09.10

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bay4k from SCARS
2008.09.10

現在、最も注目を集めるHIPHOPユニットSCARS(スカーズ)のメンバー。目に浮かぶような、巧みなストリート描写はSCARSの中でも特に際立ちライブではその巨体からとてつもないエネルギーを放出。抜群の存在感を放つ。
2007年台風の目はまたしてもSCARSで間違いない!

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Moka Only
2008.09.10

ヴァンクーバー出身の95年にスウォレン・メンバースというグループを結成。

さらに同時期にソロ・プロジェクトを始動。

ここ日本でも12inch 「Live From Rio」が中古市場で今だ絶対に値が下がらない激レア・ジャジー・ラテン・ヒップホップとして話題となりアンダーグランド・シ―ンに決定的なマークを残す日本でも大人気のカナダ人ラッパー。

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CROWN CITY ROCKERS
2008.09.10

当初ミッションと名乗り、歴史的アルバム『ワン』を発表したのが2001年。その後クラウン・シティ・ロッカーズと名を改め、活動の拠点をカリフォルニア、オークランドに移し活動してきた。ベース、キーボード、ドラム、サンプラー、そしてMCという5人編成のヒップホップ・バンド。ソロでもめまぐるしい活動をしているラーシャン・アーマッド、ヘッドノディック、そしてケロワン『アーリー・ビリーヴァーズ』への参加も記憶に新しいカット・オウアノら錚々たるメンバー。彼らは音楽への深い造詣と卓越したセンスを持ち、ソウル、ファンクを呑み込んだ文字通りオーガニックな音色、サンプルと生楽器を見事に融合させたメロウネス溢れるサウンドで多くのファンを魅了し続けている。

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MINT CONDITION
2008.09.10

ラテンとジャズに彩られ、ロックとファンクの要素が融合し、しかもモダンで一度聴いたら耳から離れないソウル・グルーヴ。

ミュージシャンがこのような音楽をクリエイトし、そして20年近くも一定のレヴェルのクオリティを保ち続けるとき、それはもはや、普通のグループやバンドを超越している。実際“ミント・コンディション”(新品同様)となるのだ。

成功を収めた5枚のアルバムと数十枚に及ぶシングルをリリースし、ワールドワイドのツアーやコラボレーションをそのジャンルにおけるトップスターたち:アリシア・キーズ、ジル・スコット、ジャネット・ジャクソン、チャーリー・ウィルソン(ギャップ・バンド)、モーリス・ホワイト(E.W. & F.)といったアーティストたちと行ったミント・コンディションは、今日のR&Bの中で唯一無二の存在であり、多くの後続たちにとって手本となる孤高の‘オールド・スクール’バンドである。

そしてストークリーのしなやかで感情的なテナーと融合した、彼らのクラシックかつコンテンポラリーなアプローチは、6枚目のスタジオ・アルバムで、バンドのインディペンデント・レーベル(ケージドバード・エンタテインメント)からリリースされる2作目のアルバムとなる『eLife』となって昇華する。

繰り返し唱えられるテーマは、インターネット時代の今日の状況で、家族や人間関係のさまざまな問題を描写すること。ギタリストのリック・キンチェンによれば、これらの問題は今まで我々が経験してこなかったものであるという。

「テキスト・メッセージを送ったり、Myspaceを使ったりEメールを書いたりっていうことをみんなしていて、そういう時代におけるリレーションシップのあり方についてのアルバムのなんだ。誰でもコンピューターの前にいながら数秒で自分の子供に何か言える。子供たちは数時間後にそれを読むことが出来たりする」

事実、絶え間ない均衡が『eLife』のオープニング・トラック “Baby Boy Baby Girl”(feat. アンソニー・ハミルトン)をインスパイアしている。

この曲のようなセレブレイト・ソングはミュージシャンにとっては胸を突かれる思いだが、リックは、この曲のメッセージは誰しもに普遍的なものだと話している。

「様々な種類のリレーションシップがあるけど、最後にここに居てくれるのは自分の子供たちだけなんだ。でも自分のことだけの歌にはしたくなかったから、自分のまわりの友達なんかで見てきたことも描いたんだよ」

心の葛藤を表現している曲はこの他にも、切なく心に迫る “Wish I Could Love You”、 リトル・ブラザーのフォンテをフィーチャリングした“Somethin”、そしてアルバムで最も魅力的な曲 “Who Do We Try”は、ア・トライブ・コールド・クエストの‘サウンド・プロバイダー’以外何者でもないアリ・シャヒード・ムハマッドによって僅かなビートと不気味なスクラッチが施され、見事にショウケイスされている。

このサウンドはミント・コンディションにとって新しい方向性への出発であり、バンドがアーティスティックな可能性の限界に挑戦してみたいという思いが表れている。 

「フューチャリスティックなユーロ・サウンドを伴った、とても真っ直ぐで飾らない曲だと思うよ」

と、リードヴォーカルのストークリー・ウィリアムズは語る。

「この曲を受け入れるかどうかは、聴く人の心境によるだろうね」

音楽業界でミント・コンディションがいまだ活躍し、より活動の幅を広げているのは、こういった彼らの豊かな創造性だ。

キーボードのローレンス・エリとケリ・ルイス、ギターのオデル、キーボード兼サックスのジェフリーを含む全てのバンド・メンバーがツイン・シティ(セントポールとミネアポリス)で育ち、(現在は‘ミネアポリス・サウンド’として知られる)プリンスによるファンク、ソウル、ポップの衝撃的な交配種にインスパイアされてきた。

少年期はお互い顔見知りではあったが、実際にコラボレーションが初めて実現したのはセントラル高校での芸術クラスであった。

スティールドラムのクラスを一緒に受講していたオデルとストークリーは、ストークリーの自宅の地下で練習を積んでから、ミュージシャンというものにすっかり魅了されてしまった。

「みんなで取っていた芸術クラスがあったんだよ」。

当時を振り返りローレンスはそう語る。

「僕らの街にはミュージシャンを雇ってたシンガーがたくさんいたんだ。僕らはあるコンサートのバックバンドとして演奏することになった。そういう機会がとても増えてきたので、そしたら自分たちでバンドを演ってしまおうってことになったんだ」

バンドのラインナップが固まったのち、今では有名になった<First Avenue>というライヴハウスで1989年に行っていたギグが、ザ・タイムの元メンバーで後にスーパー・プロデューサーとなったジミー・ジャム&テリー・ルイスの目に留まった。

彼らは当時パースペクティヴ・レコード(A&Mの子会社)を自ら立ち上げたばかりだった。

今日まで、クリエイティヴなアイデアの投入とスタジオでのブレーンとして、敬意を払ってジミー・ジャムとテリー・ルイスをクレジットしてきた。

 

「僕らのこれまでのキャリアの影にはいつもジミーとテリーの存在があって、僕らはラッキーだった。」とオデルが語っている。

「彼らもバンドをやっていたから、僕らが何をしたいと思っているか理解してくれたんだ。もしも僕らが他のレコード会社と契約を結んでいたら、何かヒットを出す前に既にバンドを解散していたかもしれないよね」

ミント・コンディションのファーストシングル“Are You Free”は少し話題になった。

しかし彼らにとって初のビッグヒットと呼べる作品は、ワシントンD.C.のWHUR-FM(ハワード大学運営の名高いカレッジラジオ)から火かついた1991年の発表の“Breakin’ My Heart (Pretty Brown Eyes)”だ。

このシングルはビルボードR&Bチャートで最高3位、ポップチャートでは6位を記録し、34週に渡りチャートインした。

その後、2枚の優れたアルバム、『From the Mint Factory』と『Definition of a Band』を発表。そして、“Forever In Your Eyes” “U Send Me Swingin” “Someone to Love” “So Fine” “You Don’t Have to Hurt No More” “What Kind of Man Would I Be”といったヒットシングルを続けざまに発表した。

パースペクティヴ・レコードがレーベルを畳み、ミント・コンディションがエレクトラに移籍してもなお、彼らの4作目となったアルバム『Life’s Aquarium』はビルボードR&Bチャートでトップ5にチャートインしたシングル“If You Love Me”を生み出す快挙を成し遂げた。

また、エネルギッシュで聴く人を惹きつけてやまないライヴ・パフォーマンスの高い評判を確立していった。

レコード会社の突然の閉鎖がバンドに変化をもたらすのに十分でなかったとしたら、別の要因がバンドに新しい道筋を示したのだろう。

『Life’s Aquarium』のリリースから2年後の2001年、ケリ・ルイスが、後に夫人となるトニ・ブラクストンのプロデュースとツアーのためにミント・コンディションを脱退した。

ミント・コンディションのメンバーによると、ケリの脱退は友好的なものだったという。

「僕らは少なくても月1回は電話で話しているし、時々会ったりもしているよ。この夏には僕らのツアーで何回か同じステージに立たないかなんていう話もしているぐらいなんだ。」

とオデルは話す。

そしてケリの脱退から数年後、ミント・コンディションはエレクトラから離れ、プリンスがアイコン的に行った方法を模倣し、バンドは自分たちのレーベル、ケイジドバード・レコード(Cagedbird Records)を立ち上げた。

2005年の『Livin’ the Luxury Brown』が自分たちのレーベルで初のリリースとなった作品である(配給はイメージ・エンタテインメント)。

アルバムはビルボード・インディペンデント・アルバム・チャートで1位を記録、そしてR&B界に名を残す新たなヒットシングル“I’m Ready”を生み出した。

『eLife』はミント・コンディションそのものと同じように、たまらなく刺激的である。

この作品はミント・コンディションを5人の男たちによるR&Bのオアシスとして位置づけ、オールド/ニュー・スクールの双方の関連性をさらに強固にしている。


「僕らは両方の世界にまたがることが出来るんだ」

とストークリーは言う。

「CDでは全部経験することは出来ないし、僕らのライヴを観るだけでも駄目。僕らがやっていることに常に注目していて欲しい。何故なら、僕らの最終ゴールは人々を楽しませ、インスパイアすることだからなんだ。僕らは常に前に進んでるっていうことだよ」

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Dday One
2008.09.10

ロサンジェルス出身のターンテーブリストであり、ビート・メイカー。自身をサンプリストと名乗るほど、サンプリングにこだわったプロダクションが特徴。過去にはグラフィティ・アートも手がけていたという。

90 年代の前半、若干11 歳の頃からロサンジェルスのレコード・ストアやリサイクル・ショップに通い始め、取り憑かれたかのようにアナログレコードの蒐集を始めた。まだサンプラーを所有していない頃からターンテーブルの針をループ・ポイントに落とす”ドロッピング・ザ・ニードル”という技を駆使し、カセット・デッキに思い通りのサンプルを重ねてビートを作っていた。数年かけて集めた膨大な枚数のレコードと、このころ培った制作方法を経て、今ではサンプラーのシーケンス機能をフル活用しディーデイ・ワンの音楽への強い愛情が溢れたビートは世界的に注目されるようになった。

2005 年には自身初となるアルバム『Loop Extensions』をアナログでリリース(その後CD も発売)。地元ロサンジェルスのアンダーグラウンドで話題となり、買い逃した元ジュラシック5 のカット・ケミストが本人にコンタクトを取り、ようやく手に入れたという逸話もある。

2008 年にはセカンド・アルバム『ヘヴィ・マイグレイション』 を発表。日本盤でもリリースされ初来日を果たす。

Official Site:www.ddayone.com
fansite:http://www.facebook.com/ddayone

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KEMUI
2008.09.10

1995年スクラッチやラップに影響を受けターンテーブル購入、DJとして1年ほど 腕を磨くが日本語のラップを耳にし衝撃を受け表現スタイルをMCへと変 える、 1996年ラップユニットOBOROを結成し都内を中心に本格的にLive活動を開始、 Dj celory / Dj hazime / Dj martinなどのMIX TAPEへの参加、またデモテープ を配るなどして2001年まで活動する。方向性に迷い1年ほど活動を休止し2003年 1MCとなり再始動、今は無き渋谷 SECOBARの伝説的イベント「TRAFFIC」へMCや DJとしてレギュラー参加、またMSC主催のイベント「HOT POT SPOT」への参加な ど現場復帰を果たす。2004年RUMIのソロアルバム「HELL ME TIGHT」へトラック とラップで参加。2005年漢(MSC)のソロアルバム「導~みちしるべ~」へ「破壊と 再生」で参加。そして2006年には LibraRecord監修のV.A「天秤録音」へDJ KEN(MJP)との合作「WORD OF PAIN」で参加。2007年、約10年になるキャリアの 中で初となるアルバム”BLUE SCREEN”がリリースされた。

Independed Hip-Hop artist KEMUI has been started as a DJ in his career in 1995 ,l he bought turntable afected by scratch and rap style. After one year Japanese Rap changed his work filed most of MC. In 1996, ”OBORO” had been organized as his Rap unit, worked Live action in Tokyo. He worked with many artist such as DJ Celory / DJ Hazime / DJ Martin, tried to make Demo from 1996-2001.But he quit his Rap group because of diffrence there style, he stoped his live action about one year. Then he started his action from 2003 again, performed legendaly event called 「TRAFFIC」 at SECOBAR, 「HOT POT SPOT」 organized MSC as a DJ and MC. He came back perfectly in his new way. In 2004, RUMI’s solo album 「HELL ME TIGHT」 as a produce and Rapper. In 2005, MC KAN solo album "Michishirube" as a produce and Rapper. In 2006, LibraRecord V/A "Tenbin-Rokuonn" worked with DJ KEN(MJP)(title "WORD OF PAIN")In 2007, he released his first album in his 10 year’s career called "BLUE SCREEN".

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