ジャンル: BLUESアーティスト情報
MARSHALL & THE FRO
2008.09.10
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BURNSIDE EXPLORATION
2008.09.10
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DAVID KIMBROUGH JR.
2008.09.10
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CARLOS JOHNSON
2008.09.10
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2004年5月。カルロス・ジョンスンはジャパン・ブルース・カーニヴァルのステージに立った。1989年にヴァレリー・ウェリントン(故人)と共に日本に来て以来、実に15年振りの来日であった。既に出演が決まっていたオーティス・ラッシュが脳梗塞に倒れ、彼をサポートするために急遽決まった来日であった。カルロスの名前がコールされ、“I Wonder Why”を弾き始めた瞬間に会場全体が総毛立った。スクィーズするギターの一音一音が心に突き刺さる。オーティス・ラッシュが登場し、その側で全身全霊を込めてギターを弾くカルロス。大きな拍手と歓声に包まれたのは言うまでもない。 その年の3月、Pヴァインが独自に制作を行い、世界のブルース・ファンにアピールする作品を作り出すという「新録ブルース企画」の第一弾として『ドント・メス・ウイズ・ザ・ブルースメン』(PCD-25020) がビリー・ブランチとの共演盤として発売された。長いキャリアにもかかわらず録音数が極端に少ない彼にとって、実質的に初めてのアルバムであった。
来日時の打ち合わせで「ライヴこそが私の魅力を引き出す」という彼の言葉を受け、ライヴ盤制作のプロジェクトがスタートした。 このレコーディングの為に特別に編成された<シリアス・ブルース・バンド>のメンバーは… シカゴ・サウスサイドの生まれのカルロスは、クラシックとジャズが好きな父と、カントリーとブルースが好きな母に育てられた。ギターは独学で始め、60年代はロック・バンドで演奏していたが、70年代に入ってからブルース・シーンで活動するようになった。そのエモーション溢れるプレイは多くのミュージシャン、ブルース・ファンを魅了している。アルバムは前述したアルゼンチン盤とPヴァイン盤の他に、2004年に日本のミスター・ケリーズから発売された『イン・アンド・アウト』がある。 サム・グリーンはカルロスのバンドのレギュラー・メンバーであり、長年に渡って彼を支えてきた屋台骨である。 キーボードのデイヴ・ライスは16歳からプロとして活動を開始し、サウス・イリノイ大学で音楽理論を学んだ。10年以上に渡るオーティス・ラッシュとの活動の他にルーサー・アリソンやバディ・ガイ、そしてロバート・プラントやジミー・ペイジなどとも共演経験がある。現在は音楽教師をしながら自らのビッグ・バンドなどで活躍中。2006年の完全オフ日は僅かに4日しかないという超売れっ子でもある。今回のレコーディングに際しては、アレンジや音楽監督を務め、影の功績者といえるであろう。 ドラムのジェイムズ・ノウルズは、カルロスと同じシカゴ・サウスサイドの出身で、やはり10代の頃からミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせている。これまでにシュガー・ブルー、メルヴィン・テイラー、アル・グリーン、タイロン・ディヴィスからR. ケリー(!)まで、幅広い活躍で知られる敏腕プレイヤーである。 (テキスト:高橋 浩 / a.k.a. 江戸川スリム)
DUWAYNE BURNSIDE AND THE MISSISSIPPI MAFIA
2008.09.10
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THE BLUES POWER
2008.09.10
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永井”ホトケ”隆×沼澤尚×中條卓×KOTEZによる
スーパー・ブルーズ・バンド、鮮烈デビュー!
昨年1stアルバム発売日にギターの浅野祥之が他界するという
悲運に見舞われたザ・ブルーズパワーの永井ホトケ隆(vo&g)と
沼澤尚(drs)が亡き浅野氏のブルーズへの熱い意志を受け継ぐべく新たに結成したblues.the-butcher-590213(通称:ブルーズ・ザ・ブッチャー)。
ベースに中條卓、ハーモニカにKOTEZを加えた4ピースで07年6月から活動開始、そして結成1年を迎え完成させた1stアルバムを6月20日リリースします!
1970年代に伝説のブルース・バンド「ウェストロード・ブルースバンド」のヴォーカルとして活躍し、以来35年以上も日本のブルース・シーンを牽引してきた永井“ホトケ”隆が浅野祥之(g)、沼澤尚(dr)とともに結成した新バンド「ブルーズ・パワー」。
ザ・ブルーズパワーのギタリスト、浅野祥之氏が4月20日に肺炎のため逝去されました。心よりご冥福をお祈り致します。
NYUDOW
2008.09.10
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日本におけるブラック・ミュージック系ヴォーカリストの第一人者であり、 1970年代初頭から活動を開始しているヴェテランである。上田正樹や憂歌団らと同時期に、ブルースハウス・ブルース・バンドという、 現在では日本のブルースの伝説ともなるグループのシンガーとして関西で本格的活動を始め、以降数多くのスタジオ・ワークをこなし、 また70年代半ばに当時トリオ・レコードから発表した、Nyudo & Prophet 「おいしい水」(PCD-5115『黄禍 Vol.2』収録)は、 クラブ・ジャズの名作として、特にヨーロッパのクラブDJ達の間で高く支持されている。ここ約10年間は、 自身の主宰するヴォーカル・スクールにも力を入れ、女性R&Bの人気シンガーであるティナとDOUBLEも入道のレッスンを受けている。またシンコー・ミュージックからヴォーカル教則本も出し、重版を続けている。
ELMORE JAMES
2008.09.10
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B.B. KING
2008.09.10
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1925年9月16日Indianola, Mississippi出身
本名ライリー・B・キング。1925年、ミシシッピ州インディアノーラ近くのイッタ・ベナに生まれる。(1943年にインディアノーラに移った。)幼少の頃より農場で働くかたわら教会でゴスペルを歌っていたが、成長するにつれレコードやラジオから流れるTボーン・ウォーカーやロニー・ジョンスンなどを聴いてブルースに親しむようになる。46年大都会メンフィスへ赴き、従兄弟のブルース・ギタリスト、ブッカ・ホワイトのもとで10ヶ月を過ごす。この時ホワイトの手ほどきによりブルース・ギターに開眼、チャンスを求めて48年には本格的にメンフィスに移り住んだ。キングはすぐに黒人ラジオ局WDIAでDJの職を得る。その時の愛称“Beal Street Blues Boy”(ビール・ストリートはメンフィスの目抜き通り)が後に“Blues Boy”に省略され、さらに短くなり“B.B.”となった。
1949年ナッシュヴィルのブレットに初録音を行った後、ロス・アンジェルスに拠点を置くビハリ兄弟のRPM(後のモダン/ケント)と契約を果たす。その頃のメンフィス録音では後にサン・レコードを興すサム・フィリップスがプロデュースをしていた。そして51年「3オクロック・ブルース」が最初のR&Bチャート1位を獲得。モダン/ケントに在籍したこの黄金の10年間でキングは30曲近くチャート・インさせ“ブルースの王様”としての地位を不動のものとする。
1962年ABCパラマウントに移籍。64年発表の『Live At The Regal』など数々の傑作ライヴ・アルバムを発表するなか、70年に「ザ・スリル・イズ・ゴーン」がポップ・チャート15位という最大のヒット、初のグラミー賞も受賞しキングの名はブルース・ファン以外にも広く知られるようになる。ロック、ジャズ、フュージョンなど様々なジャンルのアーティストと共演し、常に新しいことにチャレンジし続けたキングは、70~80年代にかけてもコンスタントにヒットを飛ばしていった。87年には<ロックンロールの殿堂>入りも果たす。90年代に入ってもキングは精力的にツアー活動を続け、93年にジョン・リー・フッカーやバディ・ガイらと共演した『Blues Summit』という傑作アルバムも発表。2000年にはエリック・クラプトンとの双頭アルバム『Riding With The King』を、そして80歳を迎えた05年にはエルトン・ジョン、ロジャー・ダルトリーなど多彩なゲストを擁した『80』を発表している。
糖尿病を患いステージでも椅子に座って弾くことが多くなり、残念ながら06年をもって海外ツアーから引退することを表明したキングだが、愛器「ルシール」とともに未だ現役として活躍し続けている。チョーキングを主体とする独特のスクィーズ・ギターを生み出し、後に続く多くのギタリストに多大な影響を与えたB.B.キング。まさに“ブルースの王様”と呼ぶに相応しい偉大なるブルースマンである。