ジャンル: ROCKアーティスト情報

DAVID SYLVIAN
2008.09.10

ヴォーカルはもとより、作詞・作曲、プロデュース、演奏を手がけ、音楽を表現媒体としてアーティストとしての道を歩んできたデイヴィッド・シルヴィアン。

近年、彼はクリスチャン・フェネス、デレク・ベイリー、ブロンド・レッドヘッド、また、さらに最近にはジョーン・ワッサー(ジョーン・アズ・ポリスウーマン)など、数多くのコラボレイターと仕事をしている。

また、自らの弟スティーヴ・ジャンセン と、エレクトロニクス・コンポーザーのバーント・フリードマンとともに、「ナイン・ホーセズ」名義でも作品をリリースしている。

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Marco Benevento
2008.09.10

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TENNISCOATS
2008.09.10

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GODSPEED YOU! BLACK EMPEROR
2008.09.10

ゴッドスピード・ユー!ブラック・エンペラーは、90 年代の初頭にエフリム、マウロ、そしてモヤから始まった。そして、グループを大編成のバンドに変えることに決める前に、トリオとして数回ライヴを行い、自主でリリースしたカセットを録音した。1995 年から1996 年にかけて、多数のモントリオールのミュージシャンを募集し、1997 年にコンステレーションからのアナログのみのデビュー・アルバムを録音する前に、GYBE は14 人ものミュージシャンと数台の16 ミリ映写機をフィーチャーし、感覚を揺さぶるウォール・オブ・サウンドなパフォーマンスを開始した。彼らは、倉庫のスペースをホテル2 タンゴというバンドのリハーサル・ルームであり、シルクスクリーンと木材の店であるDIY 活動の拠点へと作り変え、週末にはそこでこっそりとライヴを行った。グループは1998年後半までにエイダンとブルースがドラム、ティエリーとマウロがベース、エフリム、デイヴとロジャーがギター、ノルソラとソフィがそれぞれチェロとヴァイオリンという、パーマネントな9 人編成のラインナップに定着した。バンドは1998 年から2002 年にかけて休むことなくツアーし、レコーディングし、オーケストラ的なダイナミクス、壮大なロックのパワー、そして不格好で美しいフィルムのループによって特徴づけられる、魅了的な唖然のライヴ・ショウで評判を得る。4 枚の作品を遺した後、GYBE は2003 年に無期限の活動休止を発表する。それは、バンドがUK のオール・トゥモロウズ・パーティーズのキュレート、および出演のために戻ってくる2010 年12 月まで続いた。その後、(日本を含む)国際的なツアーを続けている。2012年10月には10年間で最初の録音作品『アレルヤー! ドント・ベンド! アセンド!』を発表し、幅広い賞賛を得た。

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P.G. SIX
2008.09.10

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THE ALBUM LEAF
2008.09.10

元ハードコア・バンドで活動していたアメリカ・サンディエゴ出身の、マルチ・インストゥルメンタル・ミュージシャン、ジミー・ラヴェルにより、1998年に結成されたアルバム・リーフ。
エレクトロニカ、ポストロック、音響系にブレイクビーツといった様々な音楽要素が複雑に絡み合ったアルバム・リーフ流“万華鏡”サウンドで、彼らと親交の深いシガーロスやムームと並び絶大な支持を得ている。
実際のライブでは、ジミーのサウンドを再現するサポート・メンバーらに加え、演奏とシンクロしたビジュアル映像がアルバム・リーフの世界観をさらに具現化し、幻想的な異空間を作り出す。

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Steve Jansen
2008.09.10

2007年10月24日、キャリア初となるソロ・アルバムをリリースしたスティーブ・ジャンセン。その緻密で、美しく優しい音世界をステージ上に再現する、東京での一夜限りのプレミアムライヴの開催が決定!

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JENS LEKMAN
2008.09.10

フランク・シナトラやスコット・ウォーカーのような往年の名クルーナーにも通じる低く艶やかなヴォーカルの持ち主にして、独特の哀愁とユーモアを湛えた美しいラヴ・ソングを次々に書き上げてしまう26才の若き天才。

卓越したメロディ・センスとストリングスやホーンを多用した大胆なアレンジの妙からバート・バカラックやベル・アンド・セバスチャンを、鋭い観察力に裏打ちされながらナイーヴな性格も滲み出る歌詞や歌い口からジョナサン・リッチマンを引き合いに出されることも多い(イェンス自身は「ジョナサン・リッチマンになりたいのは確かだけど、僕には絶対になれない」と認めている)が、徹底した手作り感覚のサウンドが醸し出す親密さは唯一無二のもの。

アヴァランチーズも真っ青の大胆なサンプル使いにもますます磨きがかかっている。

そのライヴ・パフォーマンスは、10人を超えるバンドを従えた大規模なものから、ギターやウクレレの弾き語りまで、多岐にわたっている。

他のアーティストとのコラボレーションも積極的に行っており、同郷のコンクリーツやホセ・ゴンザレスをはじめ、ノルウェーのキングス・オブ・コンビニエンス、スコットランドのビル・ウェルズやイザベル・キャンベル、オーストラリアのニュー・バッファローやガイ・ブラックマン、カナダのヒドゥン・カメラズやファイナル・ファンタジー、アメリカのネデルなど、その交友関係の広がりは留まるところを知らない。

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CAN
2008.09.10

クラシックや現代音楽の指揮者・鍵盤奏者としての将来を嘱望されていたイルミン・シュミット、ケルンの現代音楽コースでシュミットと共にカールハインツ・シュトックハウゼンの教え子だったホルガー・シューカイ、同じくシュトックハウゼンの助手だったアメリカ人フルート奏者デヴィッド・ジョンソン、(フリー・)ジャズ・ドラマーとしてドイツ内外で活躍していたヤキ・リーヴェツァイト、シューカイが音楽を教えていたスイスの学校の生徒で、ただひとり他のメンバーよりもひとまわり若く、ロックへの造詣が深かったミヒャエル・カローリ。いずれも自らの置かれている音楽的な環境に安住することに飽き足らなかったこの5人が、1968年6月、ケルンにあるシュミットのアパートで一堂に会し、バンドの結成が準備される。イルミン夫人で後にマネージャーとなるヒルデガルト・シュミットが、パリで出会ったアフリカ系アメリカ人の彫刻家のマルコム・ムーニーをケルンの自宅に招待したのがきっかけで、ムーニーがヴォーカリストとして参加。一方で、バンドのサウンド・エンジニアとなっていたジョンソンが年内に脱退し、シューカイがベーシスト兼エンジニアとなってメンバー編成が固まる。さらに、ムーニーとリーヴェツァイトの提案により、THE CAN というバンド名も決定(その後THE が抜けて CANに)。各メンバーが様々な要素を持ち寄ってひとつの缶=CANに投げ入れるから、あるいは、Communism-Anarchism-Nihilismの頭文字をつなげたもの、などその由来には諸説ある。 ムーニーが神経衰弱のため、アメリカに戻ることを余儀なくされ、カンは一時的にヴォーカリストを失う。翌1970年5月、日本を飛び出して世界を放浪していた若者、ダモ鈴木が、ミュンヘンのレオポルド通りでバスキング(街頭パフォーマンス)しているところを、偶然シューカイとリーヴェツァイトが見初める。ダモ鈴木は、その夜にクラブ「Blow Up」で予定されていたカンのライヴに急遽参加することになり、そのまま新ヴォーカリストとしてバンドの一員となる。『エーゲ・バミヤージ』の制作を開始する。同年2月3日には、ケルンのスポーツ・ホールでフリー・コンサートを開催。ジャグラーや体操選手までもをステージに上げて行われたこの一大イヴェントは、ヴィム・ヴェンダース作品の編集で知られるペーター・プルツィゴッダの監督のもとに撮影・編集され、「Can Free Concert」というコンサート・フィルムの形で残された。『エーゲ・バミヤージ』は同年10月にリリース。 1973年発表の5thアルバム『フューチャー・デイズ』の完成後、ダモ鈴木が唐突にバンドを脱退。カンにとってダモのヴォーカルは不可欠なものになっていただけに、方向性の転換を余儀なくされる。あのティム・ハーディンをも含む何人かのヴォーカル候補が挙がったものの、いずれも上手く行かず、翌年のアルバム『スーン・オーヴァー・ババルーマ』では、主にミヒャエル・カローリとイルミン・シュミットがリード・ヴォーカルを交互に取りつつも、インストゥルメンタルの要素が必然的に増すことになる。1975年の『ランディッド』では、初めてマルチ・トラックでのレコーディングを行い、英メロディ・メイカー誌はカンを「地球上で最も進んでいるロック・ユニット」と評した。翌1976年には、最初期から1975年に至るまでの未発表音源をまとめたLP2枚組のコンピレーション『アンリミテッド・エディション』を発売する一方、UKでもヒットしたディスコ・ポップの名曲「I Want More」を含む新作スタジオ・アルバム『フロウ・モーション』もリリース。続いて、元トラフィックのロスコー・ジー(ベース)とリーボップ・クワク・バー(パーカッション)を迎えてアフロビート色の強い『ソウ・ディライト』が録音されるが、これに伴ってすでにベーシストの座から退いていたホルガー・シューカイは、後の名作ソロ・アルバム『Movies』に結実する短波ラジオを使ったサウンド実験に没頭し、遂に1977年5月の欧州ツアー中にバンドから脱退。1978年発表の『Out of Reach』はシューカイ抜きで制作されるも、失敗に終わった。同年、初めてのベスト盤となる『Cannibalism』をリリース。1979年、最後のアルバム『CAN』をリリースしてバンドは解散を表明。 その後は、各メンバーとも精力的に音楽活動を継続していたが、1986年、マルコム・ムーニーを含むオリジナル・メンバー5人が揃い、南仏にあるミヒャエル・カローリのスタジオでカン名義のアルバム『ライト・タイム』を録音、1988年にリリース。その後、シューカイを除く4人は、ヴィム・ヴェンダース監督の映画『夢の涯てまでも』(1991)の挿入歌「Last Night Sleep」をカン名義で録音するために再び集結した。 1997年5月には、主にテクノ、ダンス、アンビエント方面のアーティストを集めて企画された、カンの楽曲のリミックス・アルバム『Sacrilege(冒涜)』がリリースされ、ソニック・ユースによる「Spoon」のリミックスなども話題になる。 1999年、前年に迎えたバンドの結成30周年を記念して、本とヴィデオとライヴCDから成る限定ボックスセット「CAN BOX」が発売され、安易に再結成を試みるのはカンの精神に反するとの判断もあり、メンバー個々のソロ・プロジェクト(ホルガー・シューカイ&U-She、ヤキ・リーヴェツァイトのクラブ・オフ・カオス、イルミン・シュミット&クモ、ミヒャエル・カローリのゾフォルトコンタクト!)を見せる形で欧州ツアーが組まれた。 2001年11月17日、ミヒャエル・カローリが長期にわたる闘病生活の末に癌のため死去。2003年3月、バンドの功績を称えて、ドイツで最も権威のある音楽賞であるエコー・アワーズの功労賞が残されたメンバーに授与され、カンの熱心なファンとして知られるレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーとジョン・フルシャンテが賞のプレゼンターを務めた。

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OGURUSU NORIHIDE
2008.09.10

京都在住、音楽家。

これまでに『humour』(carpark recordes)、『modern』(P-VINE RECORDS)の2枚のインストゥルメンタルアルバムを、アメリカ、ヨーロッパ、日本でリリース。

就労曲”6:27”が、松尾スズキ監督作品映画『恋の門』のサントラに採用され高い評価を受ける。

2005年3枚目にして初のボーカルアルバム『good morning』(BEAMS RECORDS)をリリース。

これまでのスタイルを一新、アコースティックな作品へとシフトし話題を呼ぶ。

現代音楽からハミングソングまでお年寄りから子供までと、聴く人を選ばない自由な音楽を制作している。

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