ジャンル: SOULアーティスト情報

REBEL CLIQUE
2008.09.10

ファット・ジョンはベルリンで用を足す場所を探していたところ、偶然あるカフェを見つけ、そこでドイツのR&Bソングストレス、アムレセット・ソロモンに出会った。2、3分話した後、お互いが似通った音楽への情熱と音楽制作プロセスをもつミュージシャンであることがわかった。ふたりは02年にレベル・クリークという名のグループを組んだ。グループ名(「抵抗勢力」とでも称そうか)はふたりの音楽業界に対する姿勢と、「音楽は受け入れられるべき方法で響かせなければならない」という考え方を表している。レベル・クリークはひとつの特定なスタイルや音を要求しないグループであり、アムレセットのR&B、ファット・ジョンのヒップホップ、双方のバックグラウンドどちらかに偏ることなくクリエイトされるのだ。

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TOUCH OF CLASS
2008.09.10

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V.A.(RE:SPULED BY JAY-J)
2008.09.10

ダンス・ミュージック・プロダクションの世界において、ジェイ・Jは彼のシグニチャーでもある「セクシーで、ソウルフルで、ダンスフロアを主体とした」スタイルの”利殖の才”のあるプロデューサーとして名声を確立した。

そのスタイルとは、ファンク、ソウル、そしてディスコのエレメントが、官能的なヴォーカルとブレンドされたスタイルである。

 ジェイ・Jはミゲル・ミグス、カスケード、マルケス・ワイアット、ヘイロー、ジュリアス・パップ、マーク・グラント、そしてダンス・ミュージックで最もリスペクトされるプロダクションの一つであるモウルトン・スタジオのクリス・ラムをはじめとする、多数のダンス業界のトップ・アイコンたちとコラボレートしてきた。彼らとのセッションからは、音楽のプロフェッショナルたちの注目を惹く、コンテポラリー・ダンスミュージックとしては世界規模の成功を収めたリリースが生まれた。

 2003年、ジェイ・Jはジル・スコット”He Loves Me”のリミックスでグラミー賞にノミネートされる。彼はまた、アリシア・キーズ、デイヴィッド・グレイ、リル・キム、コフィ・ブラウン、そしてドニー・マクラーキンなど著名なアーティストのリミックスも手掛け、2006年には、MTVオーストラリアがジェイ・Jに対し、アシュリー・シンプソがホストを務めたMTVオーストラリア・ビデオ・ミュージック・アワードへのパフォーマンス出演を依頼、レッド・カーペットや受賞式をあわせ、番組は(全世界で)13億人の視聴者を数えた。出演者はそのほかにスヌープ・ドッグ、ジェイムス・ブラント、ラッセル・クロウなどである。

 音楽業界のプロフェッショナルやメーカーたちは、最もホットで新しいテクノロジーの発達を明示するために、1度聴いたら耳から離れないジェイ・Jの音楽を採用した。ラトリス・バーネットをフェーチャーしたジェイ・J ”Make My Heart”は、デジデザインのICON統合コンソール・システム(2004)のサウンドトラックに使用された。アップル(コンピュータ)とデジデザインのコラボレーション企画である”Motivated By Music”は、ワールドワイドのキャンペーンとブラジル、メキシコ、イタリア、アメリカを周ったツアーのテーマにジェイ・Jの音楽をフューチャー。またSony Oxfordは音響の多様性とソフトウェア・プラグインの性能をデモンストレイトするために、ジェイ・Jの音楽をマスター・テンプレートとして採用。そしてアップルはジェイ・Jに、GarageBand(※macのレコーディング・ソフト)対応のリミックス・ツール、Jampack用に2曲のオリジナル曲制作を依頼した。

 現在、XM Radio、Music Choice、Di.Fm、Energy 92.7 FM(サンフランシスコ)、そしてKBIG 104 FM / Thump Radio(ロサンジェルス)などのシンジケーテッド・ラジオ番組※、それと世界50局以上のインターネット・ラジオでジェイ・Jの音楽を聴くことができる。

※同一プログラムを地域によって別々の放送局でオンエア

 ジェイ・Jの同業者たちは、この業界で最も影響力を持ち、リスペクトされ、多産な人物であると彼を捉えている。DJ、またプロデューサーとして、ほとんどの人が成し得ない、あくまで高いクオリティの作品をジェイ・Jは生み出してきた。

彼の新しいレーベル”Shifted Music”と共に、更にイノヴェイティヴでユニークなプロダクションを今後も期待できるだろう。

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BUBBHA THOMAS & THE LIGHTMEN
2008.09.10

テキサス・ファンクの聖地、ヒューストンで生まれ、ブッカー・ワシントン・ハイスクールにて学生バンドの名伯楽=コンラッド・O.ジョンソンに出会う。 その後、地元・テキサスのワイリー・カレッジの学生バンドを経て、スピリチュアル・ジャズファンク・バンド=Lightmenを結成、ヒューストンの[Judnell Records]から2枚のアルバムを出す。 1972年に自らのレーベル[Lightin’ Records]を設立し、数々のディープなテキサス・ジャズ・ファンクをリリース、現在も地元・ヒューストンにて音楽活動を続けている。

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PAUL MAC INNES & T.B.O.I.
2008.09.10

ニック・ウェストンの[Mukatsuku]からリリースされた300枚限定プレスの7インチで話題となったポール・マック・イネス&TBOIは、エアプレイ、ないしは世界の著名DJや音楽誌からの注目を得た。

ポールは幼い頃からソウル・ミュージック、ヒップホップ、ゴスペルに深く豊かな愛情を抱いていた。ポールの情熱的なヴォーカル・スタイルはそれらの融合とわかるだろう。ビヨーン・アルムグレンaka T.B.O.I.(ザ・ブラザー・オブ・インヴェイジョン)はスウェーデンでは有名なジャズ・サキソフォニストだ。彼は長年にわたり広い音楽ジャンルと接点を持ち、スウェーデンやヨーロッパの様々なところにツアーで廻った。ビヨーンはまた有能なドラマーとして、レゲエ、ソウル、R&B、ヒップホップのすべてから探り出して多くのセットをこなしてきた。生ヒップホップ・アーティストのバックで共に演奏したとき、共通した音楽への愛を発見し、最終的には二人の間のクリエイティヴなコラボレイションに発展した。その結果ジャズ、ヒップホップ、R&Bから影響を受けた極めてソウルフルなサウンドとなっている。

ポールは過去、ゴスペル界の伝説的なアーティストであるアンドレ・クラウチ、エルネスト、スウェル・セッションズ、ユキミ・ナガノといったアーティストの作品にゲストとして、また『Soul Togetherness』[Expansion]に楽曲が収録されたりという形でフィーチュアされてきた。スウェル・セッションズ[Freerange]の新作などが最も最近のゲスト参加である。

T.B.O.I.はジョージィ・フェイム、ブラック・モーゼス、ハカン・ヘルストロム、ナザリーンズ、ADL、ユキミ・ナガノなど多くのスウェーデン人アーティストと共演している。

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THE THREE DEUCES
2008.09.10

ニュー・マスターサウンズ・ファン必聴!

これがNMS、エディー・ロバーツのルーツだ!

エディー・ロバーツがNMS以前に率いていた伝説のバンド、ザ・スリー・デューセズ。

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MINT CONDITION
2008.09.10

ラテンとジャズに彩られ、ロックとファンクの要素が融合し、しかもモダンで一度聴いたら耳から離れないソウル・グルーヴ。

ミュージシャンがこのような音楽をクリエイトし、そして20年近くも一定のレヴェルのクオリティを保ち続けるとき、それはもはや、普通のグループやバンドを超越している。実際“ミント・コンディション”(新品同様)となるのだ。

成功を収めた5枚のアルバムと数十枚に及ぶシングルをリリースし、ワールドワイドのツアーやコラボレーションをそのジャンルにおけるトップスターたち:アリシア・キーズ、ジル・スコット、ジャネット・ジャクソン、チャーリー・ウィルソン(ギャップ・バンド)、モーリス・ホワイト(E.W. & F.)といったアーティストたちと行ったミント・コンディションは、今日のR&Bの中で唯一無二の存在であり、多くの後続たちにとって手本となる孤高の‘オールド・スクール’バンドである。

そしてストークリーのしなやかで感情的なテナーと融合した、彼らのクラシックかつコンテンポラリーなアプローチは、6枚目のスタジオ・アルバムで、バンドのインディペンデント・レーベル(ケージドバード・エンタテインメント)からリリースされる2作目のアルバムとなる『eLife』となって昇華する。

繰り返し唱えられるテーマは、インターネット時代の今日の状況で、家族や人間関係のさまざまな問題を描写すること。ギタリストのリック・キンチェンによれば、これらの問題は今まで我々が経験してこなかったものであるという。

「テキスト・メッセージを送ったり、Myspaceを使ったりEメールを書いたりっていうことをみんなしていて、そういう時代におけるリレーションシップのあり方についてのアルバムのなんだ。誰でもコンピューターの前にいながら数秒で自分の子供に何か言える。子供たちは数時間後にそれを読むことが出来たりする」

事実、絶え間ない均衡が『eLife』のオープニング・トラック “Baby Boy Baby Girl”(feat. アンソニー・ハミルトン)をインスパイアしている。

この曲のようなセレブレイト・ソングはミュージシャンにとっては胸を突かれる思いだが、リックは、この曲のメッセージは誰しもに普遍的なものだと話している。

「様々な種類のリレーションシップがあるけど、最後にここに居てくれるのは自分の子供たちだけなんだ。でも自分のことだけの歌にはしたくなかったから、自分のまわりの友達なんかで見てきたことも描いたんだよ」

心の葛藤を表現している曲はこの他にも、切なく心に迫る “Wish I Could Love You”、 リトル・ブラザーのフォンテをフィーチャリングした“Somethin”、そしてアルバムで最も魅力的な曲 “Who Do We Try”は、ア・トライブ・コールド・クエストの‘サウンド・プロバイダー’以外何者でもないアリ・シャヒード・ムハマッドによって僅かなビートと不気味なスクラッチが施され、見事にショウケイスされている。

このサウンドはミント・コンディションにとって新しい方向性への出発であり、バンドがアーティスティックな可能性の限界に挑戦してみたいという思いが表れている。 

「フューチャリスティックなユーロ・サウンドを伴った、とても真っ直ぐで飾らない曲だと思うよ」

と、リードヴォーカルのストークリー・ウィリアムズは語る。

「この曲を受け入れるかどうかは、聴く人の心境によるだろうね」

音楽業界でミント・コンディションがいまだ活躍し、より活動の幅を広げているのは、こういった彼らの豊かな創造性だ。

キーボードのローレンス・エリとケリ・ルイス、ギターのオデル、キーボード兼サックスのジェフリーを含む全てのバンド・メンバーがツイン・シティ(セントポールとミネアポリス)で育ち、(現在は‘ミネアポリス・サウンド’として知られる)プリンスによるファンク、ソウル、ポップの衝撃的な交配種にインスパイアされてきた。

少年期はお互い顔見知りではあったが、実際にコラボレーションが初めて実現したのはセントラル高校での芸術クラスであった。

スティールドラムのクラスを一緒に受講していたオデルとストークリーは、ストークリーの自宅の地下で練習を積んでから、ミュージシャンというものにすっかり魅了されてしまった。

「みんなで取っていた芸術クラスがあったんだよ」。

当時を振り返りローレンスはそう語る。

「僕らの街にはミュージシャンを雇ってたシンガーがたくさんいたんだ。僕らはあるコンサートのバックバンドとして演奏することになった。そういう機会がとても増えてきたので、そしたら自分たちでバンドを演ってしまおうってことになったんだ」

バンドのラインナップが固まったのち、今では有名になった<First Avenue>というライヴハウスで1989年に行っていたギグが、ザ・タイムの元メンバーで後にスーパー・プロデューサーとなったジミー・ジャム&テリー・ルイスの目に留まった。

彼らは当時パースペクティヴ・レコード(A&Mの子会社)を自ら立ち上げたばかりだった。

今日まで、クリエイティヴなアイデアの投入とスタジオでのブレーンとして、敬意を払ってジミー・ジャムとテリー・ルイスをクレジットしてきた。

 

「僕らのこれまでのキャリアの影にはいつもジミーとテリーの存在があって、僕らはラッキーだった。」とオデルが語っている。

「彼らもバンドをやっていたから、僕らが何をしたいと思っているか理解してくれたんだ。もしも僕らが他のレコード会社と契約を結んでいたら、何かヒットを出す前に既にバンドを解散していたかもしれないよね」

ミント・コンディションのファーストシングル“Are You Free”は少し話題になった。

しかし彼らにとって初のビッグヒットと呼べる作品は、ワシントンD.C.のWHUR-FM(ハワード大学運営の名高いカレッジラジオ)から火かついた1991年の発表の“Breakin’ My Heart (Pretty Brown Eyes)”だ。

このシングルはビルボードR&Bチャートで最高3位、ポップチャートでは6位を記録し、34週に渡りチャートインした。

その後、2枚の優れたアルバム、『From the Mint Factory』と『Definition of a Band』を発表。そして、“Forever In Your Eyes” “U Send Me Swingin” “Someone to Love” “So Fine” “You Don’t Have to Hurt No More” “What Kind of Man Would I Be”といったヒットシングルを続けざまに発表した。

パースペクティヴ・レコードがレーベルを畳み、ミント・コンディションがエレクトラに移籍してもなお、彼らの4作目となったアルバム『Life’s Aquarium』はビルボードR&Bチャートでトップ5にチャートインしたシングル“If You Love Me”を生み出す快挙を成し遂げた。

また、エネルギッシュで聴く人を惹きつけてやまないライヴ・パフォーマンスの高い評判を確立していった。

レコード会社の突然の閉鎖がバンドに変化をもたらすのに十分でなかったとしたら、別の要因がバンドに新しい道筋を示したのだろう。

『Life’s Aquarium』のリリースから2年後の2001年、ケリ・ルイスが、後に夫人となるトニ・ブラクストンのプロデュースとツアーのためにミント・コンディションを脱退した。

ミント・コンディションのメンバーによると、ケリの脱退は友好的なものだったという。

「僕らは少なくても月1回は電話で話しているし、時々会ったりもしているよ。この夏には僕らのツアーで何回か同じステージに立たないかなんていう話もしているぐらいなんだ。」

とオデルは話す。

そしてケリの脱退から数年後、ミント・コンディションはエレクトラから離れ、プリンスがアイコン的に行った方法を模倣し、バンドは自分たちのレーベル、ケイジドバード・レコード(Cagedbird Records)を立ち上げた。

2005年の『Livin’ the Luxury Brown』が自分たちのレーベルで初のリリースとなった作品である(配給はイメージ・エンタテインメント)。

アルバムはビルボード・インディペンデント・アルバム・チャートで1位を記録、そしてR&B界に名を残す新たなヒットシングル“I’m Ready”を生み出した。

『eLife』はミント・コンディションそのものと同じように、たまらなく刺激的である。

この作品はミント・コンディションを5人の男たちによるR&Bのオアシスとして位置づけ、オールド/ニュー・スクールの双方の関連性をさらに強固にしている。


「僕らは両方の世界にまたがることが出来るんだ」

とストークリーは言う。

「CDでは全部経験することは出来ないし、僕らのライヴを観るだけでも駄目。僕らがやっていることに常に注目していて欲しい。何故なら、僕らの最終ゴールは人々を楽しませ、インスパイアすることだからなんだ。僕らは常に前に進んでるっていうことだよ」

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Bill Coday
2008.09.10

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RAMP
2008.09.10

RAMPとはロイ・エアーズ・ミュージック・プロダクション(Roy Ayers Music Productions)の略で、当時[Polydor]とディールのあったロイ・エアーズの、別レーベル用プロジェクト。

1964年の結成当初はRegalsと名乗り、’60年代末にスピナーズのリズム・セクションを担当、Saturday Night Bandへと変容、76年にスピナーズのビリー・ヘンダーソンがロイに「こいつらの面倒見てやってくれ」と紹介、RAMPが生まれた。

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RHONDA THOMAS
2008.09.10

アトランタのアンダーグラウンド・ソウル・シーン出身の彼女は、インディア・アリーやドニー(モータウン)と共演、またジーヴァ(ジャイ アント・ステップ・レコード)のメンバーも務める。
1999年の秋に発表されたロンダのソロ・アルバムは、インターネット・ラジオ局”ソウル24-7”(*現在は中止している)で連続6週間ヒットチャートの1位を維持し続けた。

彼女はアイザック・ヘイズのバック・ヴォーカルを務め、またルーサー・ ヴァンドロス、ロイ・エアーズ、また伝説的なサム・アンド・デイヴのサム・ムーア、そしてインコグニートとも共演を果たしている。

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