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最後のGreat Unknown Artist =「エド」の音源が遂に陽の目をみる!南正人、加川良、友部正人、中川五郎、いとうたかお等、当時を知る大勢からの貴重なコメントも公開!
2012.01.06 RELEASE

最後のGreat Unknown Artist =「エド」の音源が遂に陽の目をみる!南正人、加川良、友部正人、中川五郎、いとうたかお等、当時を知る大勢からの貴重なコメントも公開!

短命で無念の最期を遂げた、正に幻のシンガー、エドの魂を聞け!
 1 曲1 曲に命が宿っている、そんな太く魂の歌声、当時無名Great Unknown Artistの叫びはあまりにも痛々しく心に響く。
1978 年一ツ橋兼松講堂、1980 年渋谷Eggmanでの貴重なライブ音源やスタジオジャムを中心に、執念のマスタリングによって現代に蘇った歌声・・・。
R&Bとレゲエの音楽的素養を日本語での歌唱に昇華しつつも、自らの歌詞世界と魂の歌声で真にオリジナルな表現を獲得したエドの音楽は、2010年代に生きる我々現代人の心を苛烈なまでに揺さぶるのである。
2012年2月2日、エドの歌声が遂に陽の目を見る・・・。

※レコード・コレクターズ2012年1月号にて、音楽評論家の小川真一氏による予告記事掲載!

アーティスト名:エド
アルバムタイトル:『街の灯』

発売日:2012年2月2日
品番:PCD-25124
価格:¥2,625(税込)
[Track]
01.Liar
02.Go Go Go
03.Fire
04.Casanova Lady
05.小石の理由
06.街の灯
07.胸にあふれるこの想い
08.Gpsy Blood
09.悲しみをこらえても
10.街の灯

【エド(藤田 利秋)1950/1/02 – 2000/5/23  バイオグラフィ】
70 年代初頭、ディスコ専属R&B バンドのヴォーカリストとして音楽活動を開始。
74 年、ソロとなり、ライブ・ハウス、学園祭などで注目される。
77 年、エドズ・バムを結成。
81 年、ビクター音楽産業より、「佐々木忠平、入道、橋本俊一」らと「THE VOCALISTS」をリリース。(唯一のレコーディング・アルバム)
81 年、エド・アンド・ジャミングを結成、ギタリストに塩次伸二が参加。新宿ロフト、京都磔磔などに出演。
この間、友部正人が「中道商店街」という歌で往時のエドを歌い、加川良、いとうたかおなどが彼の楽曲をとりあげるも、強
烈な印象を残しつつ、90年代には我々の視界から消える。

本CDの発売に際し、エドの盟友ともいうべきミュージシャンの方々から特別にコメントをいただきました。
当時のエドを知る方々の貴重な証言、エピソード、メッセージの数々です。

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『不思議な魅力を持つ原石』  南 正人

その昔「エド」と呼ばれる歌うたいがいた。人間が濃く、従って歌も色濃く、多くの男たちのハートをわしづかみしてしまう威力があった。やがては、ひとかどの歌手になるだろうと思っていたが、惜しいことに若くしてこの世を去った。その「エド」の作品をドキドキしながら耳を傾けた。
あー、エドの声だ。懐かしのエドの歌声が聞こえてきた。元気じゃん。バックのミュージシャンたちの顔が浮かぶ。生きていたら、もっと色んな歌を書いていただろうに…。しばし聴き入った。聴き終わってみると胸のざわつきが消え去っているのに気づいた。エドとゆっくり話ができたような気がした。
亡くなってどれくらいたつのか、これだけ時間が空くと、詞やメロディーが以前とはちがうものを伝えてくる。こちらも歳をとったんだってことか。
あるがままのエドの姿が、不思議な魅力を持つ原石
が、あの頃流れていた川の水の中で輝いていたことを
思い出した。forever young.

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『やさしい一匹狼』  加川 良

エドとはじめて会ったのは、ホーボーズコンサート(1974)だったと思います。日本語のフォークソングの中で、鎖、ジャラ、ジャラぶら下げて、トム・ウェイツの曲なんかを演っていたエド。なんか、うれしかった。
81年、レコーディング・メンバーを探すための資料のなかに、ケンちゃん(ケニー・井上憲一)プロデュースの『ボーカリスト』というアルバムがあり、そこにレゲエのリズムで叫ぶエドがいました。またまた、うれ
しかった。
それからずいぶん年が経ち、90年前後、エドが近くに住んでいることを知り、お互い行き来するようになりました。ある日、エドが置いていったカセットテープの一曲が、僕もレコーディングした『胸にあふれるこの想い』(1993年 2[tu’:]収録)です。
なぜかエドとは気が合い、よく飲みました。頼まれて結婚保証人にもなっています。仕事はプロのトビ職。「このごろ、高いところが怖くって」と恥ずかしそうに、本気で笑ってました。やさしい一匹狼、群れないオトコですね。
エドはいわゆるシンガー・ソングライターというよりも、歌いたいうたを探し続け、ひとりさまよい歩いたボーカリスト。それゆえ、このことの持つ意味は今になってみるととても重いです。(談)

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『中道商店街とエドのこと』 友部正人   

ぼくがエドのことを話すのなら、ぼくの「中道商店街」という歌のことも話さなくてはならない。たまたま撮った写真に偶然写っていたかのように、この歌には今もエドの姿がある。  
この歌ができたのは1978年ごろのことだ。エドが住んでいた吉祥寺は時代の変わり目にあった。裏通りを多くの人が歩くようになり、裏と表の区別がなくなった。エドは奥さんと、そんな時代の変わり目を散歩していた。
カップルがみんな手をつないで歩くようになったのはつい最近のことだ。一瞬でも手を離せば、相手が見えなくなるとでもいうように。70年代のカップルにはもう少し距離があった。その距離は信頼の証でもあったように思う。二人はばらばらに街を歩き、別々のものに興味を奪われるけど、目に見えないきずなに結ばれていた。変わりゆく吉祥寺の街で、ぼくにはエドたち二人が時の旅人のように映った。  
そんなエドが浜松の駅前で死んだという話を聞いたのは、2000年代になってからのことだ。最後にエドを見てから30年以上もの間、エドはぼくの中では行方不明だった。そう、あっちこっちのライブからもすっかり姿を消していた。  
あの頃、エドの歌でとても好きな歌があった。その歌を歌い始めると、聞こえてくるのはエドの野生だった。野生は馬に姿を変え、夜を疾走した。エドの顔にはいつも、その疾走の名残があった。口のまわり、目のまわりには、やさしいほほえみがくっついていた。
  そんなエドがいたからこそ、夕暮れのひなびた商店街が歌になった。時代の背景を鮮明にするには、エドの長身と無口が必要だった。あの頃ぼくにも息子が生まれ、吉祥寺の外れに家族三人で暮らしていた。奥さんと距離をとって歩くエドの姿は、新鮮なものとしてぼくの胸に焼きついたのだ。  
今エドの歌を聞くと重い。ぼくがエドを忘れてしまっていたからそう感じるのだろうか。あれからぼくらはそれぞれの重さを歌に変えてきた。「ぼくらの重さはもう古い地図には載っていない」(中道商店街)ということを知ったから。ぼくらはぼくらの地図を描き始めた。その地図には、ぼくが家族で歩く道もあるはずだった。その道の名前が「中道商店街」だと教えてくれたのはエドだった。

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『エド ―アルバムに寄せて』 中川五郎

ぼくがエドに初めて会ったのは、1970年代の中頃か後半、吉祥寺の街でだったと記憶する。その頃エドは吉祥寺に住んでいて、ぼ くも吉祥寺の近くに住んでいた。もちろん会ってすぐにぼくはエドの歌を聞く機会に恵まれ、その歌のすごさに度肝を抜かれてしまっ た。とても低く嗄れた声で、ソウルフルに歌い上げるエドの歌は、 ぼくだけでなく、聞く人みんなの心を鷲掴みにした。一緒にライブ をすることもよくあったが、エドの歌に心を奪われてうっとりして いる人の姿をぼくは何度も見かけた。歌のすごさに加えて、何とも言えないエドの人間としての魅力が、聞く人の心を強く揺さぶっていたのだと思う。  
こんなにも魅力に満ち溢れたシンガー・ソングライターだから、 エドはきっとすぐにとても人気者になるだろうとぼくは思っていた。 ソロで、デュオで、バンドを組んでと、エドはさまざまなかたちで何年も自分の音楽活動を展開し、熱心なファンは生まれたものの、 聞き手をなかなか増やせず、音楽だけで生きていけるようにはどう してもならなかった。そして気がつくとエドはぼくらの前から姿を 消し、歌うこともやめてしまっていた。  
いい歌を作って歌っていれば、いつかきっと認められるようになると言う人がいる。それは正しいことだろうし、そうであってほし いとぼくも思う。でも残念なことに現実はそうではない。エドが大 きく脚光を浴びることはなく、歌に込めた魂の強さや大きさということでいえば、エドの千分の一もないようにぼくには思えるミュージシャンがとんでもない人気を誇っていたりする。  
こうして纏められたエドの素晴らしい歌の数々を今改めて聞き返 してみると、昔聞いていた時以上に、彼の孤独や寄る辺なさ、それゆえの孤高な佇まいが、切々と痛いほど伝わって来る。そしてエドが報われなかったのは、恐らくは多くの人たちが、ここまで強く大 きなものを、こんなにも重くて真摯なものを、音楽に求めていないからではないかとも思えて来る。  
それでもぼくはいいものは必ず伝わると信じたい。そして伝わる なら、歌を作って歌っている人が、生きて活躍しているうちにであ ってほしい。

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『エドの放浪・・・エドズバムの頃』 いとうたかお

 『エド』と、ボクたちは呼んでいた。本名は藤田利秋、1950年、浜松市生まれ。JR浜松駅近くに、某有名楽器及びレコード店があった。放課後、市内の音楽好きの高校生達は、その店にたむろした。レコードの視聴は自由だったし、高校を卒業したばかりの女子店員さん達が、気さくに応対してくれるのが、みんなきっと嬉しかったんだろう・・・と思う。エドを想うと、必ずこの楽器&レコード店を思い出す。1967年、ある日、いつもの様にその店に行くと、女子店員カウンターの前に4~5人の集団が居る。んっ・・・!?。全員アフロヘアーで、柄シャツに長めのベスト、パツンパツンの細~~いパンツにロックンロールブーツ。一人は肩より長いロングヘアーも居たと記憶する。目が合わない様に、二階の楽器売り場へ来た振りをして階段へ向かうボクであった。  
この時、ボクは高校二年生、エドは三年生だったんだ。数日後、ボクはこの人達のライブ会場に居た。会場は、市内のどこかの公民館みたいなところ・・・というような不確かな記憶。それも、夜ではなく昼間、自然光の中での演奏だったと思う。演奏された曲目で覚えているのは、ビートルズの『デイ・トリッパー』。他は、その当時はやり出した、ウイルソン・ピケットやサム&デイブ、オーティス・レディングのナンバーだったんだと思う。エドはその時、ベースかサイド・ギターでコーラスをやってたと思う。みんな動きがすごくシャープで、色の付いた照明なんか無くても関係ない、「なんてカッコイイ奴らなんだ」と、ボクはわくわくして観ていた。  
でも、ボクは高校在学中は、エドと個人的に会ったり話したりしたことはなかった。なぜかというと、その風貌にビビって近寄らなかったのだ。その後、ボクは名古屋の某大学に進学したのだが、ひとつ年上のエドは、一足先に名古屋に居て、ディスコで演奏していた。その頃のディスコはどこも生バンドが演奏していて、お立ち台では、肌もあらわなゴーゴー・ガールが腰を振って踊り、ブラックライトにミラーボールはグルグル回り、ストロボは点滅しているので、しらふでも妙な雰囲気になって来る。ある日の夕方、栄町を歩いていると、前方から超ミニスカートの細長い女の子が、しゃなしゃなと歩いて来る。
「あれっ」「おっ」 彼女は、ポニーという、やはりひとつ年上の、浜松では例の楽器&レコード店のすぐ横のタバコ屋の看板娘だった女の子だったのだ。みんなそこでタバコを買っていた。「タカオじゃ~~ん、オマエなんでここにいるの~~?」「いや、大学でこっち来たんだけど・・・」ポニーはゴーゴー・ガールをやっていて、同じ店でエドのバンドも演っていると言う。その日、そのままそのディスコへ行き、ポニーがエドに紹介してくれたのだ。ボクがエドと話が出来る様になったのは、やっとこの頃からである。ボクは18才、エドは19才だった。
そして、4年後、ボクは東京に居た。エドも東京に居た。エドは、もうディスコの箱バンの仕事はやめて、日本語のオリジナル曲を作り始めていた。音楽では喰えないので、鳶などの仕事をしながら、初めはひとりで、唄う場所があればそこで唄い、その内だんだんメンバーが見つかって、バンドになっていった。ある時、確か神奈川のどこかの大学のホールでの催しで『エドズバム』を観た。圧巻だった。(このアルバムの中では6曲目~7曲目の頃だ)メンバーの誰一人として、後へは引かないぞ・・・という、その風情。エドは、黒人ソウル・シンガーの様な足さばきのステップで、浮いて滑る様に動きながら唄う。出会ったこと全ての影響が現れている・・・かのように・・・そして笑顔で唄った。
音を聴いているだけでも、ドラマーの腕がしなっているのが見えるような高崎静夫の叩き出すビートに、金森つとむのベースが絡みつく。太田ヒデのパーカッションが煽る。須川光の吹きすさぶ風のハモンドに包まれて、田中のりおのギターが唸る。漆黒の空間を切り裂き希望の灯火を地の果てまでも運ぼうと疾走する小島康夫のバイオリン。キーボードの須川光が、「一緒にやってても、小島君のバイオリン、涙でてくるんだよね」と言っていたのを、ボクは覚えている。  
その小島やすおも、一足先にもうこの世には居ない。エドは頑固者である。嫌だと思ったらテコでも動かない。他のメンバーも似た者同士なので、出演前の楽屋で殴り合いということもあったらしい。そんな後でも、ちゃんとステージはやっているのだから・・・これまたスゴイと言うしかない。そんな風だからなのか、いわゆる“世に出る“ということにはならなかったのだが、しかし、今でも、「『エドズバム』は、あの頃の日本のロックバンドの中でもダントツだった」という人は数多い。  
・・・余談である。ボクは、東京に行った数年後に再び名古屋に移り住んで結婚したのだが、その新婚当時、エドの一行がツアーの途中ウチへ寄った。チャイムが鳴りドアを開けるや、股間を両手で押さえ、「ウ~~~、オンナダキテーヨ~~~」と言いながらエドは駆け込んで来た。ボクは思わずつれあいの前に立ちはだかったのだった。  
まあ、これは、いつものエド一流のジョークなのである。その日はおとなしくお茶など2~3杯飲んで、当時の女性マネージャーやバンドのメンバーと一緒に帰って行ったのでした。そうかと思えば、夜中の1時過ぎに電話をよこし、
「曲が出来たからちょっと聴いてくれ」と言い、受話器を置いて唄い出す、なんてことも何度かあった。  
そんな贅沢な迷惑をかけてくれる奴も、もう出ては来ないんだろうなあ・・・。  
余談ついでに書いておこう。当時のマネージャーが何人か替わり、みんな、エドの手綱を引くのが大変そうなので、ボクがマネージャーをやれば大丈夫なんじゃないだろうか・・・と真剣に考えたことがある。あと一歩のところで踏みとどまったのだけどね。 エドには、この事は話してないので知らないんだよね。でもきっと、「バカヤロー! よけいなお世話だ。オマエは自分の歌を唄えっ!」って言っただろうな。
「2001年の5月下旬のある朝、JR浜松駅近くのベンチで亡くなっていたのを、通行人に発見された・・・」というのを知ったのは、翌年だった。   浜松近郊でのライブ後、古い友人達と昔話やみんなの近況など話している時、エドのことに話がおよぶと、居合わせた人がボソッと言った、「エド・・・死んだよね・・・」その人のお兄さんが、エドと高校の同級生で、しかもサッカー部でも一緒だったのだと言う。そちらからの情報ということだった。酒を飲み続けていたらしい。ほとんど酒しか飲んでないというに等しいくらいだった、とも聞いた。エドの弟分の唄い手、松村志郎がお墓を捜し出してくれて、みんなでお参りをした。
エド! ありがとう。あなたの歌は現在も色褪せていません。むしろ、この時代、輝きを増しているようにすら思えます。ボクは、『エドズバム』の古いカセットテープを持っていて、今でも聴くたびに涙します。でもそれは、死んでしまったエドを懐かしんでの涙ではありません。エドのあの笑っているような歌声が、ボクの心の暗闇を正しく照らしてくれるからです。

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『Talking ‘Bout Edo』 タイロン橋本
 
30年程前、僕はエドという名のシンガーとデュオで歌っていた。エドがLead Vocalで僕はG&Cho。 池袋シアターグリーンのホーボーズコンサート。高円寺次郎吉オープニングライブ。貧乏旅行でいった関西ツアー。…思い出が一杯だ。僕たちの18番は"OL’ 55"。Tom Waitsの曲というより僕のなかではエドの曲だった。OL’55のRecording中にふとエドの事を思い出し、エドは今頃どうしているんだろう?などと仲間と話していた。その数日後にエドの訃報を聞くとは露知らずに。… 恥ずかしそうな笑顔が似合っていたエドにこのOL’55を捧げます。合掌。

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『エドの居場所は』 木澤嘉春

エドと初めてあったのは、75年のころかな、35年も経っている。
確か久保田真琴さんの知り合いの知り合いの家で、おれと夕焼け楽団の井上憲一君と二人で借りていた。
とにかくそこへ来たエドは、トム・ウェイツのなんという歌だったかを歌って聞かせてくれた。
ほんの少し照れていて、、、そうだ、「oll’55」だ。変なヤツだと思った。
初対面で自己紹介の代わりに歌など歌って帰っていくなんて。
いつからか何故かいっしょにライブを始めていた。2年ほどの短い間かな、
2人で何度か数カ所?いや、数十カ所?行ったことがある。
ラジオ局にも行った。ユーミンの文化放送での生演奏。
なぜかエドは緊張している風には見えなかった。僕はそうじゃない。
たぶん、彼はこっそりウイスキーの小瓶でもポケットに隠していたんだろう。
しかし、なぜエドなんだ?エドの呼び名の由来は?、、どうでもいいか。
おれだってキーボー?何それ?っていつも思う。
81年ぐらいからは会うことが少なくなり82年の暮れからは会ってない。
彼の死を知らされても驚かなかった。酒かぁ、路上かぁって思った。何がそんなに彼を追いつめたのだろうか。
僕はバブルで浮かれた日本を見ていなくてよかった。何か、純粋で素朴なものが痛めつけられたのかも知れない。
慎ましく純粋であるほど、居場所が無くなるのだろうか?
感覚は常に外側に居場所を持つはずなのに、中へすべり込んだのだろうか。
崩壊の延長はやはり崩壊で終わるのか。わからないことばかりだ。
届いた彼の音源を少し聞いた。声は生々しい、まるで彼が生きているかのようだ。

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『エドの≪弟分≫』 松村志郎

初めて会った時、俺は17だったからエドもまだ二十代だったんだなぁ。当時、勝手にガッコウを卒業して浜松の小さなライブハウスで唄い始めてた俺には、もっとずっと大人に見えて、ちょっと悪くてどこかインチキ臭かったけど、とにかくやたらとカッコ良くて、トム・ウェイツもガーランド・ジェフリーズもすっ飛ばして≪エドの弟分≫って言われるのがうれしかった。  
わがままで寂しがり屋。その場しのぎで強情。 そのくせ<幸せ>とか<温もり>とかは、きっと居心地が悪かったんだろうな。手に入れたモノをいつも自分から手放してた。 みんなエドを愛してたのに、その愛を裏切ることで前に進もうとしてた気がする。  
エドがどこに行きたかったのか、ぜんぜん判らないワケじゃないけど、俺はアンタみたいな生き方を選ばなかった。
それでも俺を≪弟≫だと想ってくれてるかね。

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『バムとジャミングの日々』 須川 光

エドは僕が名古屋に住んでいた20歳位の頃、まだそんなに楽器がうまく弾けなかったのに、
雰囲気だけでエドズ・バムにさそってくれ、東京に行くきっかけをつくってくれた。
都内や地方のライブハウスをよくまわりましたね。下北沢の『ぐ』とかで、よく飲んで遊んだりして。
あったかく、ケンカっぱやい兄貴的な人でした。
その後エドズ・バムは解散し、1,2年後、当時僕が住んでいた
中野富士見町のアパートの一階にあったリハーサル・スタジオで、
セッションをやっていく中でエド・アンド・ジャミングが出来ていく。
それから僕は妻と、ジャミングのドラムスのアキ、同じくドラムスのシーちゃんと4人でシェアして、
大泉学園の一軒家に引っ越した。この大泉学園の家にはジャミングのメンバーが集まり、
エドも仕事帰りによく来ましたよね。その後、僕の妻に子供が出来、一軒家のシェアを解消したあたりかな、
バンドも解散してしまった、、、その頃、エドにお金を貸していて、「これを返すと、おまえとの縁もなくなるから」と。
でも結局それは返され、それっきりエドとは会わなくなりました。
演歌の世界とマイナーを基調とした曲を、何でもありのレゲエスタイルで演っていたジャミング、おもしろかったです。
今、エドがどこの世界にいるかわからないけど、この世に CD が物質化されたことに、おめでとう。
そしてエドとの出会いに、ありがとう。また、どこかで、、、。

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  • Edo「街の灯」

    街の灯
    2012/02/02 CD PCD-25124
    定価:¥2,625(税抜¥2,500)