ジャンル: ROCKアーティスト情報
CAN
2008.09.10
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クラシックや現代音楽の指揮者・鍵盤奏者としての将来を嘱望されていたイルミン・シュミット、ケルンの現代音楽コースでシュミットと共にカールハインツ・シュトックハウゼンの教え子だったホルガー・シューカイ、同じくシュトックハウゼンの助手だったアメリカ人フルート奏者デヴィッド・ジョンソン、(フリー・)ジャズ・ドラマーとしてドイツ内外で活躍していたヤキ・リーヴェツァイト、シューカイが音楽を教えていたスイスの学校の生徒で、ただひとり他のメンバーよりもひとまわり若く、ロックへの造詣が深かったミヒャエル・カローリ。いずれも自らの置かれている音楽的な環境に安住することに飽き足らなかったこの5人が、1968年6月、ケルンにあるシュミットのアパートで一堂に会し、バンドの結成が準備される。イルミン夫人で後にマネージャーとなるヒルデガルト・シュミットが、パリで出会ったアフリカ系アメリカ人の彫刻家のマルコム・ムーニーをケルンの自宅に招待したのがきっかけで、ムーニーがヴォーカリストとして参加。一方で、バンドのサウンド・エンジニアとなっていたジョンソンが年内に脱退し、シューカイがベーシスト兼エンジニアとなってメンバー編成が固まる。さらに、ムーニーとリーヴェツァイトの提案により、THE CAN というバンド名も決定(その後THE が抜けて CANに)。各メンバーが様々な要素を持ち寄ってひとつの缶=CANに投げ入れるから、あるいは、Communism-Anarchism-Nihilismの頭文字をつなげたもの、などその由来には諸説ある。 ムーニーが神経衰弱のため、アメリカに戻ることを余儀なくされ、カンは一時的にヴォーカリストを失う。翌1970年5月、日本を飛び出して世界を放浪していた若者、ダモ鈴木が、ミュンヘンのレオポルド通りでバスキング(街頭パフォーマンス)しているところを、偶然シューカイとリーヴェツァイトが見初める。ダモ鈴木は、その夜にクラブ「Blow Up」で予定されていたカンのライヴに急遽参加することになり、そのまま新ヴォーカリストとしてバンドの一員となる。『エーゲ・バミヤージ』の制作を開始する。同年2月3日には、ケルンのスポーツ・ホールでフリー・コンサートを開催。ジャグラーや体操選手までもをステージに上げて行われたこの一大イヴェントは、ヴィム・ヴェンダース作品の編集で知られるペーター・プルツィゴッダの監督のもとに撮影・編集され、「Can Free Concert」というコンサート・フィルムの形で残された。『エーゲ・バミヤージ』は同年10月にリリース。 1973年発表の5thアルバム『フューチャー・デイズ』の完成後、ダモ鈴木が唐突にバンドを脱退。カンにとってダモのヴォーカルは不可欠なものになっていただけに、方向性の転換を余儀なくされる。あのティム・ハーディンをも含む何人かのヴォーカル候補が挙がったものの、いずれも上手く行かず、翌年のアルバム『スーン・オーヴァー・ババルーマ』では、主にミヒャエル・カローリとイルミン・シュミットがリード・ヴォーカルを交互に取りつつも、インストゥルメンタルの要素が必然的に増すことになる。1975年の『ランディッド』では、初めてマルチ・トラックでのレコーディングを行い、英メロディ・メイカー誌はカンを「地球上で最も進んでいるロック・ユニット」と評した。翌1976年には、最初期から1975年に至るまでの未発表音源をまとめたLP2枚組のコンピレーション『アンリミテッド・エディション』を発売する一方、UKでもヒットしたディスコ・ポップの名曲「I Want More」を含む新作スタジオ・アルバム『フロウ・モーション』もリリース。続いて、元トラフィックのロスコー・ジー(ベース)とリーボップ・クワク・バー(パーカッション)を迎えてアフロビート色の強い『ソウ・ディライト』が録音されるが、これに伴ってすでにベーシストの座から退いていたホルガー・シューカイは、後の名作ソロ・アルバム『Movies』に結実する短波ラジオを使ったサウンド実験に没頭し、遂に1977年5月の欧州ツアー中にバンドから脱退。1978年発表の『Out of Reach』はシューカイ抜きで制作されるも、失敗に終わった。同年、初めてのベスト盤となる『Cannibalism』をリリース。1979年、最後のアルバム『CAN』をリリースしてバンドは解散を表明。 その後は、各メンバーとも精力的に音楽活動を継続していたが、1986年、マルコム・ムーニーを含むオリジナル・メンバー5人が揃い、南仏にあるミヒャエル・カローリのスタジオでカン名義のアルバム『ライト・タイム』を録音、1988年にリリース。その後、シューカイを除く4人は、ヴィム・ヴェンダース監督の映画『夢の涯てまでも』(1991)の挿入歌「Last Night Sleep」をカン名義で録音するために再び集結した。 1997年5月には、主にテクノ、ダンス、アンビエント方面のアーティストを集めて企画された、カンの楽曲のリミックス・アルバム『Sacrilege(冒涜)』がリリースされ、ソニック・ユースによる「Spoon」のリミックスなども話題になる。 1999年、前年に迎えたバンドの結成30周年を記念して、本とヴィデオとライヴCDから成る限定ボックスセット「CAN BOX」が発売され、安易に再結成を試みるのはカンの精神に反するとの判断もあり、メンバー個々のソロ・プロジェクト(ホルガー・シューカイ&U-She、ヤキ・リーヴェツァイトのクラブ・オフ・カオス、イルミン・シュミット&クモ、ミヒャエル・カローリのゾフォルトコンタクト!)を見せる形で欧州ツアーが組まれた。 2001年11月17日、ミヒャエル・カローリが長期にわたる闘病生活の末に癌のため死去。2003年3月、バンドの功績を称えて、ドイツで最も権威のある音楽賞であるエコー・アワーズの功労賞が残されたメンバーに授与され、カンの熱心なファンとして知られるレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーとジョン・フルシャンテが賞のプレゼンターを務めた。
OGURUSU NORIHIDE
2008.09.10
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ELLIOTT SMITH
2008.09.10
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PANTHER
2008.09.10
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5RCからアルバム1枚をリリースして2006年に惜しくも解散したポートランドの奇天烈なバンド、The Planet The (その面白すぎるライヴはフガジのブレンダン・カンティ監修によるDVDシリーズ「Burn To Shine」のポートランド編で見ることができる)のフロントマン、チャーリー・サラス・フマラによるユニット。
E*VAX(ラタタット)と共に Audio Dregs を運営する E*ROCK が新たに立ち上げたレーベル Fryk Beat からリリースされた前作ではチャーリーのソロ・ユニットだったが、今作からは 元 31Knots のジョー・ケリーをドラマーに迎えてデュオ編成となった。
ラタタットやザ・ゴシップのサポート・アクトとしてアメリカやヨーロッパ各地をツアーしており、ライヴ・バンドとしての実力も高く評価されている。
ANTONY & THE JOHNSONS
2008.09.10
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本名アントニー・ヘガティ。1971 年、イングランド南東部に位置するサセックス地方の町チチェスターに生まれる。1977 年にはアムステルダムに、さらに10 才の頃にはカリフォルニアのサン・ホセに移住。80 年代初めに相次いで登場したカルチャー・クラブのボーイ・ジョージやソフト・セルのマーク・アーモンドといった英国のシンガーを知り、そのジェンダーを越えた中性的な魅力に強い影響を受ける。地元の大学に進学した10 代の終わり頃には、ジョン・ウォーターズの映画を元にした舞台劇を演出する。1990 年、ニューヨークに移り、NYU の実験演劇コースに入学(*1)。サンフランシスコのヒッピー文化とゲイ解放運動が結びついた異色の演劇集団、コケッツの中心メンバーのひとりだったマーティン・ウォーマンに出会う(*2)。1992 年の夏には、ジョアンナ・コンスタンティンらと共に前衛的なパフォーマンス・グループ、ブラックリップスを結成。イースト・ヴィレッジのピラミッド・シアターで毎週月曜日の夜に定期公演を行い、NY のアンダーグラウンドなクラブシーンで注目を集める(*3)。1995年にブラックリップスが解散した後は、演劇性を残しつつもより音楽に傾斜した新たなグループ、アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ(*4)を率いて活動。2000 年、カレント93 のデヴィッド・チベットが運営するUK のレーベル、デュルトロより、セルフタイトルのデビュー・アルバムを発表。さらに、翌2001 年にリリースしたEP『I Fell in Love With a Dead Boy』がプロデューサーのハル・ウィルナー(*5)の目に留まり、ウィルナーを通じてルー・リードにも紹介される。2003 年、リードの世界ツアーでバッキング・ヴォーカルに抜擢され、アルバムの録音にも参加。2005 年、アメリカではシークレットリー・カナディアン、ヨーロッパではラフ・トレードより、セカンド・アルバム『アイ・アム・ア・バード・ナウ』をリリース。同作により、英国最高の音楽賞とされるマーキュリー・プライズを受賞。MOJO 誌の「アルバム・オブ・ジ・イヤー」にも選出された。2009 年1 月、敬愛する日本の舞踏家、大野一雄の写真をジャケットに配したサード・アルバム『クライング・ライト』を発表。ビルボードのヨーロッパ・チャートで1 位を記録する。ビョークとルー・リードの他にも、ルーファス・ウェインライト、ブライアン・フェリー、マリアンヌ・フェイスフル、Hercules and Love Affair 、マシュー・ハーバート、ヨーコ・オノ、ローリー・アンダーソン等々、様々なアーティストとコラボレーションを行っている。
(*1)NY のアンダーグラウンドな音楽やパフォーマンス・アートのシーンを取材したドキュメンタリー映画『モンド・ニューヨーク』(1988)の中で、ビリー・ホリデイに扮してビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」を歌うドラッグ・クイーン、ジョーイ・アリアスの姿に感銘を受けた、とアントニーは後のインタビューで語っている。
(*2)コケッツは、1960 年代末、サンフランシスコのヒッピー・コミューン「カリフラワー」の一員だったハイビスカスらを中心に結成。髭をたくわえたドラッグ・クイーンというハイビスカスの強烈な外見や、自由奔放できらびやかなステージによって注目を集め、後のディスコの「女王」シルヴェスターをはじめ、ジョン・ウォーターズの映画で有名になるディヴァインやミンク・ストールも出入りしていた。ウォーマンは、エイズがNY のゲイ・コミュニティで猛威を振るっていた87 年頃に元メンバーたちを取材し、コケッツの歴史を記述していたが、道半ばにして自身もエイズに倒れ、93 年に死去。だが、NYU に提出される予定だったその未完の博士論文は、デヴィッド・ワイスマンとビル・ウェバーによるドキュメンタリー映画『ザ・コケッツ』(2002)の重要な典拠となった。
(*3)「Cripple and Starfish」「Blue Angel」「Hitler in My Heart」といった曲はすでにこの頃からブラックリップスの舞台で披露していた。
(*4)NY の伝説的なドラッグ・クイーンにしてトランスジェンダーの活動家だったマーシャ・P・ジョンソン(1945-1992)の名前に由来している。
(*5)80 年代初頭から長年にわたって米NBC の人気番組「サタデー・ナイト・ライブ」の音楽監修を務めるかたわら、ニーノ・ロータ、セロニアス・モンク、チャールズ・ミンガス、クルト・ヴァイルらへの斬新なトリビュート・アルバムを次々に企画・プロデュース。さらにジェフ・バックリーやレナード・コーエンらへのトリビュート・コンサート(後者にはアントニーも参加)もプロデュースしている。さらに、映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズの監督ゴア・ヴァービンスキーと主演のジョニー・デップの構想(「海賊や船乗りにまつわる伝承歌」を集めるというもの)にウィルナーが肉付けした野心的なコンピレーション『Rogue’s Gallery』(2006)では、アントニーとブライアン・フェリーのデュエットを聴くことができる。アントニーが参加したマリアンヌ・フェイスフルの最新作『Easy Come, Easy Go』(2008)もやはりウィルナーのプロデュース。
BOBB TRIMBLE
2008.09.10
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これは紛れもなく今年度のリイシューのみならず、新作リリースも含めて最も衝撃的な事件のひとつだ! 不世出のシンガーソングライター、ボブ・トリンブルが80年代初頭に残したサイケ/アシッド・フォーク/ロック史上に残る至高の名盤2枚が遂に初の正規CD化(激レアなファーストのオリジナル盤は時に10万円を超える高値で取引されている)! 本人監修のリマスター(従来出回っていたブートレグとは比較にならない音質)、ボーナストラック多数収録! 25年の時を超えて今なおリスナーの脳天を直撃し、ハートを撃ち抜いてやまない、とんでもない音塊に茫然自失。 ヴァシュティ・バニヤン、リンダ・パーハックス、ジュディ・シル、カレン・ダルトン、ピーター・アイヴァース級の衝撃!!
THE ALUMINUM GROUP
2008.09.10
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SWEET BILLY PILGRIM
2008.09.10
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ティム・エルセンバーグ、アリステア・ハマー、アンソニー・ビショップの3人から成るスウィート・ビリー・ピルグリム。 04年にシングル「Ain’t No Jesus Here」でデビューし、ジェイムズ・ヨークストンのサポートや、デイヴィッド・シルヴィアンの傑作『ブレミッシュ』のリミックス・アルバムへの参加などによって徐々に注目を集めてきた。 本国イギリスでは、フォークトロニカの新星などと言われることもある彼らだが、その本質は、あくまでも“うた”、そしてメロディにあると言えるだろう。ウィルコやアイアン・アンド・ワインに通じるアーシーさと、シルヴィアンやイーノのような優美さを併せ持つと評されるその音楽は、ルーツ・ミュージックに根ざしつつも、あくまでもクールで洗練された感触を持つ。