ジャンル: R&Bアーティスト情報

DANNY WHITE
2008.09.10

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MINT CONDITION
2008.09.10

ラテンとジャズに彩られ、ロックとファンクの要素が融合し、しかもモダンで一度聴いたら耳から離れないソウル・グルーヴ。

ミュージシャンがこのような音楽をクリエイトし、そして20年近くも一定のレヴェルのクオリティを保ち続けるとき、それはもはや、普通のグループやバンドを超越している。実際“ミント・コンディション”(新品同様)となるのだ。

成功を収めた5枚のアルバムと数十枚に及ぶシングルをリリースし、ワールドワイドのツアーやコラボレーションをそのジャンルにおけるトップスターたち:アリシア・キーズ、ジル・スコット、ジャネット・ジャクソン、チャーリー・ウィルソン(ギャップ・バンド)、モーリス・ホワイト(E.W. & F.)といったアーティストたちと行ったミント・コンディションは、今日のR&Bの中で唯一無二の存在であり、多くの後続たちにとって手本となる孤高の‘オールド・スクール’バンドである。

そしてストークリーのしなやかで感情的なテナーと融合した、彼らのクラシックかつコンテンポラリーなアプローチは、6枚目のスタジオ・アルバムで、バンドのインディペンデント・レーベル(ケージドバード・エンタテインメント)からリリースされる2作目のアルバムとなる『eLife』となって昇華する。

繰り返し唱えられるテーマは、インターネット時代の今日の状況で、家族や人間関係のさまざまな問題を描写すること。ギタリストのリック・キンチェンによれば、これらの問題は今まで我々が経験してこなかったものであるという。

「テキスト・メッセージを送ったり、Myspaceを使ったりEメールを書いたりっていうことをみんなしていて、そういう時代におけるリレーションシップのあり方についてのアルバムのなんだ。誰でもコンピューターの前にいながら数秒で自分の子供に何か言える。子供たちは数時間後にそれを読むことが出来たりする」

事実、絶え間ない均衡が『eLife』のオープニング・トラック “Baby Boy Baby Girl”(feat. アンソニー・ハミルトン)をインスパイアしている。

この曲のようなセレブレイト・ソングはミュージシャンにとっては胸を突かれる思いだが、リックは、この曲のメッセージは誰しもに普遍的なものだと話している。

「様々な種類のリレーションシップがあるけど、最後にここに居てくれるのは自分の子供たちだけなんだ。でも自分のことだけの歌にはしたくなかったから、自分のまわりの友達なんかで見てきたことも描いたんだよ」

心の葛藤を表現している曲はこの他にも、切なく心に迫る “Wish I Could Love You”、 リトル・ブラザーのフォンテをフィーチャリングした“Somethin”、そしてアルバムで最も魅力的な曲 “Who Do We Try”は、ア・トライブ・コールド・クエストの‘サウンド・プロバイダー’以外何者でもないアリ・シャヒード・ムハマッドによって僅かなビートと不気味なスクラッチが施され、見事にショウケイスされている。

このサウンドはミント・コンディションにとって新しい方向性への出発であり、バンドがアーティスティックな可能性の限界に挑戦してみたいという思いが表れている。 

「フューチャリスティックなユーロ・サウンドを伴った、とても真っ直ぐで飾らない曲だと思うよ」

と、リードヴォーカルのストークリー・ウィリアムズは語る。

「この曲を受け入れるかどうかは、聴く人の心境によるだろうね」

音楽業界でミント・コンディションがいまだ活躍し、より活動の幅を広げているのは、こういった彼らの豊かな創造性だ。

キーボードのローレンス・エリとケリ・ルイス、ギターのオデル、キーボード兼サックスのジェフリーを含む全てのバンド・メンバーがツイン・シティ(セントポールとミネアポリス)で育ち、(現在は‘ミネアポリス・サウンド’として知られる)プリンスによるファンク、ソウル、ポップの衝撃的な交配種にインスパイアされてきた。

少年期はお互い顔見知りではあったが、実際にコラボレーションが初めて実現したのはセントラル高校での芸術クラスであった。

スティールドラムのクラスを一緒に受講していたオデルとストークリーは、ストークリーの自宅の地下で練習を積んでから、ミュージシャンというものにすっかり魅了されてしまった。

「みんなで取っていた芸術クラスがあったんだよ」。

当時を振り返りローレンスはそう語る。

「僕らの街にはミュージシャンを雇ってたシンガーがたくさんいたんだ。僕らはあるコンサートのバックバンドとして演奏することになった。そういう機会がとても増えてきたので、そしたら自分たちでバンドを演ってしまおうってことになったんだ」

バンドのラインナップが固まったのち、今では有名になった<First Avenue>というライヴハウスで1989年に行っていたギグが、ザ・タイムの元メンバーで後にスーパー・プロデューサーとなったジミー・ジャム&テリー・ルイスの目に留まった。

彼らは当時パースペクティヴ・レコード(A&Mの子会社)を自ら立ち上げたばかりだった。

今日まで、クリエイティヴなアイデアの投入とスタジオでのブレーンとして、敬意を払ってジミー・ジャムとテリー・ルイスをクレジットしてきた。

 

「僕らのこれまでのキャリアの影にはいつもジミーとテリーの存在があって、僕らはラッキーだった。」とオデルが語っている。

「彼らもバンドをやっていたから、僕らが何をしたいと思っているか理解してくれたんだ。もしも僕らが他のレコード会社と契約を結んでいたら、何かヒットを出す前に既にバンドを解散していたかもしれないよね」

ミント・コンディションのファーストシングル“Are You Free”は少し話題になった。

しかし彼らにとって初のビッグヒットと呼べる作品は、ワシントンD.C.のWHUR-FM(ハワード大学運営の名高いカレッジラジオ)から火かついた1991年の発表の“Breakin’ My Heart (Pretty Brown Eyes)”だ。

このシングルはビルボードR&Bチャートで最高3位、ポップチャートでは6位を記録し、34週に渡りチャートインした。

その後、2枚の優れたアルバム、『From the Mint Factory』と『Definition of a Band』を発表。そして、“Forever In Your Eyes” “U Send Me Swingin” “Someone to Love” “So Fine” “You Don’t Have to Hurt No More” “What Kind of Man Would I Be”といったヒットシングルを続けざまに発表した。

パースペクティヴ・レコードがレーベルを畳み、ミント・コンディションがエレクトラに移籍してもなお、彼らの4作目となったアルバム『Life’s Aquarium』はビルボードR&Bチャートでトップ5にチャートインしたシングル“If You Love Me”を生み出す快挙を成し遂げた。

また、エネルギッシュで聴く人を惹きつけてやまないライヴ・パフォーマンスの高い評判を確立していった。

レコード会社の突然の閉鎖がバンドに変化をもたらすのに十分でなかったとしたら、別の要因がバンドに新しい道筋を示したのだろう。

『Life’s Aquarium』のリリースから2年後の2001年、ケリ・ルイスが、後に夫人となるトニ・ブラクストンのプロデュースとツアーのためにミント・コンディションを脱退した。

ミント・コンディションのメンバーによると、ケリの脱退は友好的なものだったという。

「僕らは少なくても月1回は電話で話しているし、時々会ったりもしているよ。この夏には僕らのツアーで何回か同じステージに立たないかなんていう話もしているぐらいなんだ。」

とオデルは話す。

そしてケリの脱退から数年後、ミント・コンディションはエレクトラから離れ、プリンスがアイコン的に行った方法を模倣し、バンドは自分たちのレーベル、ケイジドバード・レコード(Cagedbird Records)を立ち上げた。

2005年の『Livin’ the Luxury Brown』が自分たちのレーベルで初のリリースとなった作品である(配給はイメージ・エンタテインメント)。

アルバムはビルボード・インディペンデント・アルバム・チャートで1位を記録、そしてR&B界に名を残す新たなヒットシングル“I’m Ready”を生み出した。

『eLife』はミント・コンディションそのものと同じように、たまらなく刺激的である。

この作品はミント・コンディションを5人の男たちによるR&Bのオアシスとして位置づけ、オールド/ニュー・スクールの双方の関連性をさらに強固にしている。


「僕らは両方の世界にまたがることが出来るんだ」

とストークリーは言う。

「CDでは全部経験することは出来ないし、僕らのライヴを観るだけでも駄目。僕らがやっていることに常に注目していて欲しい。何故なら、僕らの最終ゴールは人々を楽しませ、インスパイアすることだからなんだ。僕らは常に前に進んでるっていうことだよ」

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MYRON
2008.09.10

クリーヴランド出身のソウル・シンガーで、音楽家一家に生まれたマイロンは、音楽を作ることが運命付けられていた。
彼の練習の場でもあった父親の教会で、マイロンはドラムとピアノを習得し始めた。
母親はオルガンとウーリッツァーで伴奏し、父親は歌を歌いアルト・サックスを演奏しながら、マイロンは4歳の時から弟と一緒に、アメリカ中西部じゅうの教会やスクールイベントを歌って回った。

高校を卒業して間もなく、マイロンは多数の「ホテル・バンド」のサイドマンとしてキーボード/ヴォーカリストで起用され、東海岸を旅して回った。
1996年、フィラデルフィアのAdam’s Markホテルでの演奏中に、マイロンはアイランド・ブラック・ミュージックのA&R、スタンレー・ブラウンに発掘された。

マイロンはアイランド・ブラック・ミュージック社長、ハイラム・ヒックスのもとで契約を結んだ。そしてウーピー・ゴールドバーグ主演の映画『Eddie』のサウンドトラックにフィーチュアされ、曲も書いた。

1998年、マイロンのデビュー・アルバム『Destiny』が発売された。そしてシングル“We Can Get Down”, “So Fly”, “Destiny”もリリースされた。アルバムのゲスト・アーティストはソルト‘ン’ペパのスピンデレラ、ボーイズIIメンのショーン・ストックマン、プロデューサーとしてはチャッキー・トンプソン、[LaFace]のプロデューサーのジョン=ジョンなどだ。
アルバム『Destiny』は20万枚以上のセールスを誇った。ファースト・シングルの“We Can Get Down”はロンドンのR&Bチャートで1位を獲得し、10週間もの間、1位の座に輝いた。

この間にも、マイロンはマイヤや[Loud]のL.V.といったメインストリームのR&Bアーティストをプロデュースし、ドゥルー・ヒルのゴールド・シングルとなったデビュー・シングル“Tell Me”を作曲した。

一年後、アイランド・ブラック・ミュージックは倒産し、マイロンのデビュー・アルバムのプロモーションも終了した。

2000年、マイロンと彼のパートナーであるジョシュ・ホニストックはインディペンデントのソウル・レーベル、[Moja Music]をニューヨークに創設した。
契約を結んだアーティストのプロダクションや作曲のクレジットには[Interscope Records]のダニ・スティーヴンソン、[J Records]のギャヴィン・デグロウ、[Shanachie Records]のウォルター・ビーズレイ、そして[Nu Mecca / Orpheus Records]のコーニャ・ドスなどがいる。

2004年、[Moja Music]はマイロンのセカンド・アルバム『Free』をリリースした。このアルバムはUK、フランス、日本、そしてブラジル、アルゼンチンで、インディペンデントのレーベルから発売され、10,000枚のセールスを記録した。
シングルの"Free"は[Hidden Beach Records]の『Hidden Hits Vol,1』や、UK、ノルウェー、モナコの2005年度の数枚のコンピレーションにフィーチュアされた。
アルバム『Free』のプロモーションのため、マイロンは2004年3月にUKでツアーを開始し、同年6月にはUKのMTVでのライヴ・コンサートに出演した。

2004年5月、マイロンは‘音楽業界と、表彰に値するコミュニティへの貢献’において、ザ・クリーヴランド・ハイツ・アルムナイ・ホール・オブ・フェイムの殿堂入りを果たした。

2005年から2006年にかけて、マイロンはクリーヴランドのソウル・シンガー、コーニャ・ドスの2枚のアルバム『Just Because』と『Love Rain Down』[Dome Records / Moja Music]をプロデュースした。2006年から現在まで、マイロンはニュー・コミュニティー・バイブル・フェローシップの、クワイアとバンドのミュージカル・ディレクターに任命されている。

2007年、マイロンはスイスでトップ10に入るアーティスト、セヴンのアルバム『Home』の4曲をプロデュースした。同年、マイロンはニュー・アルバム『Myron & The Works』のプロデュースのため、ミシェル・ンデゲオチェロ、ロバート・グラスパー、チャールズ・ヘインズらとコラボレイションを開始した。
新作は2008年の初夏にリリース予定である。
2008年の初頭には、同じく2008年にリリース予定のコーニャ・ドスのニュー・アルバムに収録される4曲をプロデュースした。

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SEVEN
2008.09.10

スイスでテナー歌手とピアニストの間に産まれたセヴンは、兄が始めたバンドのヴォーカルを務めるようになり、高校時代にはTV番組に何度か出演。

18歳の時には才能あるシンガー・ソングライターに成長。

’02年にソロデビュー・アルバム「Dedicated To…」を制作、同秋にサポーティング・アクトとしてビラルやデスチャのステージ前座を。

’04年にはセカンド「Sevensoul」を発表。自身のツアーも行い、各メディアからも注目を浴びるまでに。同年ライヴ盤リリース、スイスの最優秀新人賞獲得。

’05年サード「Lovejam」を発表、本国チャート・トップ10。ツアーでは英国でも実施。その模様はCDにも。

’07年、自身の名前"7"を冠するこの特別な年に、昨年渡米しレコーディングした新作「Home」を遂に発表、本国チャート5位。

まさにスイスのソウル・R&Bシーンを引っ張るスター! 

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COKO
2008.09.10

ココ・クレモンズ。この名前は鐘以上に私たちの記憶に響いてくる。90年代に‘ニュー・ジル・スウィング’トリオ、シスターズ・ウィズ・ヴォイセス(SWV)の名でチャートをにぎわせた数々のスマッシュヒットを思い起こさせる。

""I’m So Into You,"" ""Weak,"" ""You’re The One,"" ""Right Here (Human Nature),""

そして""Rain"" といった曲は、そのR&Bグループによって有名になったメガヒット曲のほんの一部である。

ココは常に、ただの’教会あがり’のR&Bシンガーではなかった。「私は今まで教会から離れたことが1度もないのよ。」威厳のあるこのディーヴァはそう話す。「私自身のR&B仕事とは関係なく、自分の通っている教会でこれまでずっと活動を続けてきたわ。多くのR&Bのシンガーたちは’私は教会の中で育ったんです’と言うけど、実際はもう現役ではないのよ。教会は私にとって、歌う力を養った場以上の存在で、まさに私のソウルを育ててくれたところ。私のライフスタイルの全てなの」。

ココはヴァージニア州のヴァージニア・ビーチに移住する前は、ニューヨーク・ブロンクスのローズ・チャーチのメンバーとして、ローズ・チャーチ・カテドラル・クワイア『We Are Healed』のために""Some How, Some Way""をライヴ・レコーディングした。また、ブレント・ジョーンズ&T.P.モブ[EMI Gospel]が2002年に発表したアルバム『Beautiful』に収録のゴスペル・ヒット""Midnight""を録音した。更に、彼女はユースフル・プレイズ[Evidence Gospel/Light]の最新作『Bless Him』収録の“Up There”にフィーチャーされている。

 

ゴスペルのクワイアと共にレコーディングを行うことは、ココにとって何ら珍しいことではない。そんな彼女は12才の時に彼女の叔母、ベニー・ディグスが指揮していたニューヨーク・コミュニティ・クワイアのメンバーとしてキャリアをスタートさせた。そして後に受賞経験もあるヘゼカイア・ウォーカーのラヴ・フェローシップ・クルセード・クワイアのメンバーとなった。ウォーカーのクワイアに在籍中、ココは幼なじみのリアーナ’リリー’ライオンズとタマラ・’タージ’・ジョンソンと組んでSWVを結成し、グループは自分達の活動の場をR&Bとした。SWVはRCAと契約し、アーバン・ミュージック・シーンに多大な影響を与えていった。

 

SWVは合計5枚のアルバムを発表した:1994年の『It’s About Time』と『Remixes』、1996年の『New Beginning』、1997年の『Release Some Tension』 、そして2001年に発売された『The Best of SWV』である。高い評価を受けたクインシー・ジョーンズ『Q’s Jook Joint』にフィーチュアされたことに加え、グループは更に『ため息つかせて』『フリー・ウィリー』『ベイブ』『アバヴ・ザ・リヴ/ビート・オブ・ダンク』といった映画のサウンドトラックにフィーチュアされた。

 

大成功を収めた一連のSWVのアルバムに加え、ココは数々の賞に輝いたウィル・スミスのシングル""Men In Black"" のフックを歌った。このシングルはタイトルソングとして同名の映画サウンドトラックに収録されている。その他、映画『ハヴ・プレンティ』サントラではジョン・Bとのデュエット曲 ""Keep It Real""を歌い、映画『ダブル・デート』サントラではリック・ジェームス&ティーナ・マリーの名曲""Fire & Desire"" をジョニー・ギルと共にカヴァー、また映画『ホワイ・ドゥ・フールズ・フォール・イン・ラブ』サントラでは""He Be Back""でミッシー・エリオットと共演した。またココは、R&Bトリオ・ LSG『LSG』収録の ""All The Times""でフェイス・エヴァンス、ミッシー・エリオットと共演し、テヴィン・キャンベル『Tevin Campbell』ではテヴィンとのデュエット曲""Everything You Are"" を録音した。

 

SWV解散後、ココはポップ・フレンドリーなソロ・デビュー・アルバム『Hot Coko』 を録音。アルバムからはシングル""Sunshine"" がヒットした。しかしながら、高い評価を受けつつもアルバムの反応は控えめだった。シングル""Sunshine""はコンピ『Street Vibes, Vol. 4』にフィーチュアされ、また2000年に発売された[Ayia Napa]のコンピレーションには同曲のダンス・リミックス・ヴァーションがフィーチュアされた。

 

ニューヨークのブロンクスで生まれ育ったココは、[RCA]がちょうどブラック・ミュージック部門を閉鎖する時に2枚目のソロ・アルバムのレコーディングを始めた。「その時、既に私は音楽活動を中断して自分の家族にもっと目を向ける時期なんじゃないのかしらと思っていたの。」とココは認めている。「音楽業界は悪い方向に向かっていると感じるわ。あらゆることがより無防備に性を売ることに走り始め、そういうことをするのは私の精神に反することだと思ったの。そう考えると、レーベルが閉鎖したのは不幸に見えるけど、実際には幸いだったと思う」。

 

「これまでの自分の仕事や自分に対する称賛にはとても満足しているけど、それでもまだやりたいことがたくさんあるの。ゴスペルのレーベルを自分で運営したいと思っているし、新人を発掘して育てていきたいとも思っているわ。俳優業もやりたいし、例えばブロードウェイなんかも興味深いわね

 

脚本家、デイヴィッド・E・タルバートによる『Love Makes Things Happen』という劇で彼女は演技にも挑戦した。この作品でアン・ヴォーグのドーン・ロビンソン、アフター7のケヴォン・エドモンズ、そしてコメディアンのジョー・トリーと共演し、ココは主役を勤めた。

 

ココは音楽への愛と、ライヴで彼女のファンのためにパフォーマンスをする喜びに加え、神、夫のビッグ・マイク・クレモンズ、息子のジャズとジェイレン、そして母親と強い結束でつながり続けていることに誇りを持っている。

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