MYRON マイロン

クリーヴランド出身のソウル・シンガーで、音楽家一家に生まれたマイロンは、音楽を作ることが運命付けられていた。
彼の練習の場でもあった父親の教会で、マイロンはドラムとピアノを習得し始めた。
母親はオルガンとウーリッツァーで伴奏し、父親は歌を歌いアルト・サックスを演奏しながら、マイロンは4歳の時から弟と一緒に、アメリカ中西部じゅうの教会やスクールイベントを歌って回った。

高校を卒業して間もなく、マイロンは多数の「ホテル・バンド」のサイドマンとしてキーボード/ヴォーカリストで起用され、東海岸を旅して回った。
1996年、フィラデルフィアのAdam’s Markホテルでの演奏中に、マイロンはアイランド・ブラック・ミュージックのA&R、スタンレー・ブラウンに発掘された。

マイロンはアイランド・ブラック・ミュージック社長、ハイラム・ヒックスのもとで契約を結んだ。そしてウーピー・ゴールドバーグ主演の映画『Eddie』のサウンドトラックにフィーチュアされ、曲も書いた。

1998年、マイロンのデビュー・アルバム『Destiny』が発売された。そしてシングル“We Can Get Down”, “So Fly”, “Destiny”もリリースされた。アルバムのゲスト・アーティストはソルト‘ン’ペパのスピンデレラ、ボーイズIIメンのショーン・ストックマン、プロデューサーとしてはチャッキー・トンプソン、[LaFace]のプロデューサーのジョン=ジョンなどだ。
アルバム『Destiny』は20万枚以上のセールスを誇った。ファースト・シングルの“We Can Get Down”はロンドンのR&Bチャートで1位を獲得し、10週間もの間、1位の座に輝いた。

この間にも、マイロンはマイヤや[Loud]のL.V.といったメインストリームのR&Bアーティストをプロデュースし、ドゥルー・ヒルのゴールド・シングルとなったデビュー・シングル“Tell Me”を作曲した。

一年後、アイランド・ブラック・ミュージックは倒産し、マイロンのデビュー・アルバムのプロモーションも終了した。

2000年、マイロンと彼のパートナーであるジョシュ・ホニストックはインディペンデントのソウル・レーベル、[Moja Music]をニューヨークに創設した。
契約を結んだアーティストのプロダクションや作曲のクレジットには[Interscope Records]のダニ・スティーヴンソン、[J Records]のギャヴィン・デグロウ、[Shanachie Records]のウォルター・ビーズレイ、そして[Nu Mecca / Orpheus Records]のコーニャ・ドスなどがいる。

2004年、[Moja Music]はマイロンのセカンド・アルバム『Free』をリリースした。このアルバムはUK、フランス、日本、そしてブラジル、アルゼンチンで、インディペンデントのレーベルから発売され、10,000枚のセールスを記録した。
シングルの"Free"は[Hidden Beach Records]の『Hidden Hits Vol,1』や、UK、ノルウェー、モナコの2005年度の数枚のコンピレーションにフィーチュアされた。
アルバム『Free』のプロモーションのため、マイロンは2004年3月にUKでツアーを開始し、同年6月にはUKのMTVでのライヴ・コンサートに出演した。

2004年5月、マイロンは‘音楽業界と、表彰に値するコミュニティへの貢献’において、ザ・クリーヴランド・ハイツ・アルムナイ・ホール・オブ・フェイムの殿堂入りを果たした。

2005年から2006年にかけて、マイロンはクリーヴランドのソウル・シンガー、コーニャ・ドスの2枚のアルバム『Just Because』と『Love Rain Down』[Dome Records / Moja Music]をプロデュースした。2006年から現在まで、マイロンはニュー・コミュニティー・バイブル・フェローシップの、クワイアとバンドのミュージカル・ディレクターに任命されている。

2007年、マイロンはスイスでトップ10に入るアーティスト、セヴンのアルバム『Home』の4曲をプロデュースした。同年、マイロンはニュー・アルバム『Myron & The Works』のプロデュースのため、ミシェル・ンデゲオチェロ、ロバート・グラスパー、チャールズ・ヘインズらとコラボレイションを開始した。
新作は2008年の初夏にリリース予定である。
2008年の初頭には、同じく2008年にリリース予定のコーニャ・ドスのニュー・アルバムに収録される4曲をプロデュースした。

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